ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

G.馬場と張本勲が、力道山から直接聞いた相撲を辞めた理由。

戦後日本に新しい格闘技プロレスを根付かせた力道山。彼の出自は日本統治下の朝鮮半島出身者だ。16歳で力士になるため 来日し二所ノ関部屋に入門、 戦後の1946年11月場所に入幕を果たし、1949年5月場所に関脇にまで昇進するが、翌年の9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り 落とし廃業してしまった。その突然の廃業について力道山本人が黙して語らず様々な憶測がなされた。力道山がプロレスラーになって活躍し始めた頃、道場に押しかけ入門したジャイアント馬場が面接の際に力道山が自ら語ったという言葉がある。「ワシはワシのことを 冷たくあしらった角界の バカ親方連中に対して 激しい闘志を今でも抱いている。 このワシのことを ”諜反児”だとか”反逆児” 扱いにした親方連中に報復し 彼らにグーの音も 吐かせないようにしてやる為には 彼らが”西洋相撲”と 小馬鹿にしてるプロレスを 第1級のプロスポーツにして見せる、ということだ」と語ったという。そして、同じ朝鮮人アスリートとして力道山が可愛がっていたプロ野球選手張本勲が直接力道山から聞いたのは、「当時、結婚の費用の用立てを親方に頼んだら良い返事がない。『大関・横綱になったら返せる』と親方に迫ったら親方から『朝鮮籍の力士は大関・横綱にはなれない』と言われ思い切って髷を切り落とした」のだという。相撲取りからプロレスに転向した力道山は、転向の理由を自から公にしなかったが、2人の証言を聞く限りでは、その根底に「人種差別」があったのは明らかだ。