ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

マッカーサー元帥の「原子爆弾」投下直前、「朝鮮戦争」は停戦した。

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日本が敗戦した第二次世界大戦終結から5年後の1950年6月に始まった南北朝鮮戦争。北朝鮮軍の宣戦布告なしの奇襲攻撃で米軍・国連軍が追い込まれると、マッカーサー元帥(⬆上写真右)は米海兵隊による朝鮮半島への上陸作戦を敢行しこれを見事に成功させたが、この後に参戦してきた中国軍が朝鮮国境を越えてなだれ込み、米軍・国連軍は再び押し戻されて戦争は一進一退の状況となってしまった。翌年1951年の3月、マッカーサーはこの膠着状態を打開すべく北朝鮮を援護する「中華人民共和国を叩きのめす」との声明をトルーマン大統領(⬆上写真左)の許可を得ずに発表した。その作戦とは、中国満州に50個もの原爆を投下し中国の空軍力を壊滅させ、アメリカ海兵隊と中国国民党軍(台湾軍)合計50万名で中国軍の背後に上陸して補給路を断ち、38度線から進撃してくる中国・北朝鮮軍を包囲殲滅、その後に日本海から黄海まで朝鮮半島を横断して放射性コバルトを散布し、中国軍の侵入を防ぐという戦略だった。この考えに基づきマッカーサーは、原爆の前線への移送と使用許可をトルーマン大統領に求めたが、大統領は返事を一旦は保留した。しかしこの後トルーマン大統領が折れて「原爆の使用」を認可、マッカーサーの申し出通り4月6日に原爆9個をグアムに移送する決定をした。しかし、トルーマン大統領はマッカーサーが早まった決断をしないよう強く警戒し、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず戦略空軍の指揮下に置くという保険までかけての決断だった。翌4月7日には原爆搭載用のB-29をグアム島に配備までしたが、その後、「停戦交渉」が始まった為に原爆は「朝鮮戦争」で使われることは無かった。そして「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒したトルーマン大統領によって朝鮮戦争の「停戦」直前、つまり原爆をグアムへと移送途中の4月に、マッカーサーは道半ばにして「軍最高司令官」の地位を解任されてしまった。