今日はノーベル賞授賞式の日。今年は日本人の受賞者が1人も出なかったために、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏に日本のマスコミはスポットを当てて大騒ぎするだろう。しかしカズオ・イシグロ氏は日本人イシグロカズオでは決して無い。父親の仕事の関係で5歳で英国に渡り35年も前からイギリス国籍をもつ列記としたイギリス人だ。日本のマスコミのインタビューでも流暢な英語は話すが、日本語を使った試しが無いではないか。そして彼の表情を見れば日本人のような穏やかなな目つきでは無くイギリス人のインテリ特有のちょっとばかり気難しそうな目つきをしているではないか。人間は育った環境で顔つきまで変わってしまうと言う典型的な例だろう。日本の批評家は彼の文学作品の中に日本人としてのアイデンテティを見出そうと躍起になっているが、彼の作品を読めばわかるがそんなモノは微塵もない。カズオ・イシグロ氏自身も「もはや日本で暮らすことはできません。日本語を話せないし慣習もわからないのですから。自分自身に日本人になれるかと問いかけて無理だと気づきました」とイギリス人である自分について語っている。日本人は小説家カズオ・イシグロ氏をもっと突き放した目でみて、もし興味があれば彼のイギリス文学作品からイギリスの文化や精神性とは何かについて学べば良いのだ。下手な考えで彼の作品に日本人のルーツを無理やり感じ取ろうとしてもまったく意味の無いことだ。現代はグローバリゼーションの時代である。イギリス文学に特別の興味を持たない我々は、たまたま日本名を連想させるイギリス人作家がノーベル賞を受賞したというニュースを聞いた、それだけで十分な話ではなかろうか。