ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

ノーベル賞3度逃した野口英世、理由は本人の予想とは大違い。

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教科書や伝記や千円札の肖像などで日本人なら誰でも知っている医学者の野口英世。その彼は、100年以上前にノーベル賞候補として3度もノミネートされながら、1度も受賞には至らなかった。野口の最初のノミネートは大正3年(1914年)、梅毒スピロヘーターを世界中で初めて発見し、その純粋培養に成功したのが候補の理由だったが、この研究の追試に成功した人が誰もいなかったことから英世の研究が疑問視しされた為だった。大正4年には、2度めの有力候補者となったが第一次世界大戦が勃発し、ノーベル賞委員会は大正6年まで該当者なしということにしたため、英世の受賞は見送られてしまった。その時の悔しさを、、野口英世本人は「今年のノーベル賞の授与は中止になるでしょう。仮に授与があったとしても、交戦国の日本の学者にはスウェーデン国が中立国としての義務として避けるはずです。とにかく私は、目下のところノーベル賞は絶望となりました」と、語っている。3度めのノミネートは1919年黄熱病の病原体を発見し、そのワクチンまで完成させた事によるものだったが、これも決定的な根拠にかけることを理由に受賞を逃している。後年分かった事は、英世の発見した病原体はワイル病のもので、そのワクチンもワイル病には効果があったものの黄熱病にはまったく効かなかった。野口英世が3度もノーベル賞を逃した本当の理由は、本人が語った「交戦国の学者」だったからではなく、1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里柴三郎の名前が挙がったのに、結果は研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞したように、当時のスウェーデン国には明らかな東洋人を見下す差別意識があったからだとされている。