戦後日本を代表する女流画家三岸節子⬆は、日本画壇で功成り名を遂げた60代の老境にさしかかっていた1968年(63歳)、突然「日本への訣別」を宣言し、フランスへと移住した。以来20年あまり、病のため84歳で無念の帰国をするまで、滅多に訪れる人もないフランスの片田舎カーニュに居を定め、ひたすら制作に打ち込んだのだ。南仏、ブルゴーニュ地方、ヴェニス、スペイン、シシリー島…精力的な取材旅行を繰り返しながら、「本物の油絵を描く」ことに彼女は心血を注いだ。老境を迎えてからの渡仏、三岸節子は、その覚悟について「私はこれから寂しいとか悲しいとかつらいなどという自己陶酔をやめよう。いかなる場合も感謝と謙虚と柔和な心をいっときも失わぬよう心がけねばならぬ」と当時の日記に綴っている。フランスへ移住したあとの彼女の日記にも、画家としての自分を進化させようともがき続けた姿が読み取れる。「私の運命は好んで困難な道を歩む.....何というむずかしい世界か、しかしやり遂げねば。カーニュに死すともよし=64歳」「絵を描くことは、長く遠く果てしない孤独との戦いである=64歳」「もっともっと深く掘り下げて、根元の自己をつかみだしてもっと根の深い作品を描きたい。広野の一本の大木のように何百年も生き続ける生命力を得たい=68歳」「まだまだ生きている間は、一枚の作品に年齢相応の深い味わいを出してゆきたい=72歳」「 私には才能がない。ただ努力と根と運があるだけで今日まで歩いてきた。才能である、才能の不足である=73歳」。70代でもなお自分の才能を謙虚に疑っていた三岸節子は、その後も精力的に作品を生み出し続け、94歳で天寿を全うした。