2009年9月フランス・パリで開催された 江戸時代の浮世絵オークションで、東洲斎写楽の作品(⬆上右)が39万6000ユーロ(約5360万円)と写楽の浮世絵の落札額としては史上最高の価格で競り落とされた。世界でこれほどの高い評価を受けている「写楽」の浮世絵は、明治期まで日本ではまるっきり評価されていなかった。明治の始め、写楽の浮世絵版画は浅草などの道端の露店に山積みにされ「よりどり1銭」(かけそば一杯の値段)で売られていた、と明治期の文人・画家「淡島寒月」が「古版画趣味の昔話」に書き残している。江戸時代の浮世絵師の伝記や来歴を記した 大田南畝の『浮世絵類考』には、「写楽」について「東洲斎写楽は、歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」と人気が無かったと記されている。写楽が描いた歌舞伎役者の大首絵は、目のシワやワシ鼻、受け口など顔の特徴を誇張してその役者が持つ個性を大胆かつ巧みに描き、また表情やポーズもダイナミックに描き、従来の役者絵とは大きく異なる作品であったため、江戸庶民にはまったく受け入れられなかった。ところが、明治43年(1910年) ドイツの美術研究家ユリウス・クルト (⬆上左)が著書『SHARAKU』の中で、写楽のことを称賛し、これがきっかけで大正時代頃から欧米や日本でその評価がにわかに高まったのだ。クルトは、 『SHARAKU』の序文に「江戸の人々は写楽の芸術を、無慈悲な冷ややかな眼差しで歌舞伎役者の心の中を覗き込んだとして非難し、写楽が浮世絵師の中で、最も偉大な芸術家であることをあえて認めようとして来なかった」と書いている。「個性」的な表現を認めようとしない日本人「個性」的な表現を尊ぶ西洋人、113年前の「写楽」の芸術的価値の評価は、これほど大きな開きがあったのだ。