
「春の海 ひねもす のたりのたり哉」、「菜の花や 月は東に日は西に」など、まるで一幅の絵画を見るような写実的な表現の俳句で知られる与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠であり、「俳画」の創始者としても知られている。 独学で、大和絵、中国南宋・北宋画、山水画などさまざまな画風に貪欲に挑戦し身につけたとされるその画力は、緻密で大胆な屏風画や軽妙洒脱な文人画まで幅広く、後世には国宝や重要文化財に指定された作品を数多く残している。しかし、存命中の与謝蕪村は、まったく世間から認められず、当時(江戸中期)作られていた俳人番附でも蕪村の名は末席に小さくあるのみ、二流以下の俳人としての評価でしかなく、当然ながら収入は乏しく京の裏町でひっそり貧しく暮らし、困苦をかかえたまま亡くなった。時代が江戸から明治へと変わり、俳人正岡子規が蕪村の俳句に目を留め、これを絶賛し、遂には芭蕉と蕪村を二大俳聖と称したのは、蕪村が死んでから150年後のことだった。才能がありながら不幸な生涯を送った蕪村について、作家の司馬遼太郎は「歴史と小説」の中で、「蕪村は窮乏のなかに死んだ。同時代の円山応挙は画家として栄華の中で死ぬ。数百年をへたこんにち、いずれの絵に評価が高いか、古美術商の小僧でさえ知っている」と書き残している。