ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

芭蕉の「月日は百代の過客〜」は、井原西鶴のパクリ。

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松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭で「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」と言う有名な一節が出てくる。我々が教科書や俳句の解説本などで教えられたのは、唐代の詩人李白の詩「春夜宴桃李園序」から引用した一節というものだった。しかし、この文章は李白の詩からの引用ではなく、芭蕉と俳人としてライバル関係にあった井原西鶴が、芭蕉が『奥の細道』の序文を書く丁度1年前1688年に出版した浮世草子『日本永代蔵』の中の一節を引用したのでは、という疑いが出ている。「日本永代蔵」の中に「されば天地は萬物の逆旅。光陰は百代の過客、浮生は夢幻といふ」と西鶴はっきりと記しており、西鶴を常に意識していた芭蕉がこの文章をアレンジして「奥の細道」の序文に用いたと考えられるのだ。芭蕉より2歳年上の西鶴、俳諧の世界で、最初に名をあげていたのは西鶴だったが、時が経つにつれ、芭蕉の名声が西鶴を上回っていき、2人はお互いに舌戦を繰り広げるようになる。「奥の細道」で芭蕉が詠んだ「辛崎の松は花より朧にて」を西鶴は「まるで連歌だ」と批判、対して、芭蕉は西鶴が好んだ矢数(1日にどれだけ多く句を作るかの競技)に関して「点取りに昼夜を尽くし、勝負を争い、道を見ないで走り回る者」は俳諧師の下等級に位置すると貶していた。その芭蕉が、「奥の細道」の序文に西鶴の浮世草子の一節をなぜわざわざ引用したのか。俳諧から作家へと転身した西鶴の「好色一代女」や「日本永代蔵」に描かれた商人文化や町人文化のそれまでになかった「革新的な表現」を、芭蕉は俳諧とは別ものとしてリスペクトしたからに違いない。