ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

白人選手だけのNBAに初参戦した侍「三坂 亙」はいま94歳の生き証人だ。

f:id:gunjix:20181223162204j:plain

アメリカで人気の高いスポーツのプロバスケットリーグNBA。黒人選手が初めてNBAでプレイする事ができた1950年の3年前、1947年にNBA(当時はBBA)に白人以外の人種で初のプレイヤーとしてドラフト指名され「ニューヨーク・ニックス」でプレーしたユタ大学の日系人学生ワタル・ミサカ選手。彼の両親は共に広島県出身で明治・大正時代にアメリカに移民した生粋の日本人だった。NBAの公式サイトでもアジア人初のNBAプレイヤーとして紹介された記事があり、その中で終戦直後で日本人に対する人種差別が激しかった時代の選手生活についてミサカ氏は「ニューヨーク・ニックス時代の私に対する偏見は他のどこよりも少なかった。私の出身のユタ州のファンもNYのマジソンスクエアガーデンでプレーしているニューヨーカーとして私の背中を押してくれていた」と回想している。2004年に田臥勇太選手がNBA初の日本人プレイヤーとして騒がれる57年も前の出来事だ。ミサカ選手は170cmと小柄ながら試合でもいい動きを見せていたが出場できたのはわずか3試合、7得点の成績で引退している。その理由の一つは当時の白人監督が日系人の選手起用を嫌っていた為だと言われている。引退したミサカ氏は、プロバスケット入団の契約金3,000ドルを活用してユタ大学へ復学、機械工学の学士号を取得しエンジニアとしてミサイル制御システムの設計に長いこと携わり引退後はユタ州で悠々自適の生活を送っている。10年前の2008年には当時のオバマ大統領からその「開拓者精神」 を讃えられて祝福のメッセージも受けている。今から71年前「サムライ精神」でNBAに白人以外の選手への道を初めて切り開いた亙(ワタル)・三坂(ミサカ)氏は、御年94歳になる素晴らしい「生き証人」だ。