ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

フェノロサ「平治物語絵巻」をどうやって米国へ持ち去った。

1878年(明治11年)当時25歳で来日し、東京大学で哲学、政治学などを講じたお雇い外国人アーネスト・フェノロサ(⬆上右)。東京大学での教え子だった岡倉天心とともに東京美術学校の設立に尽力するなど日本美術界の恩人とされている。そのフェノロサは、日本の国宝級の美術品「平治物語絵巻」を日本から持ち出した人物として後年、多くの批判に晒された。《平治物語絵巻》は、鎌倉時代13世紀後半の作で、平治の乱(1159年)の発端になった源義朝らが「三条殿」を急襲した様が描かれている。現在3巻と残欠が存在しているが、フェノロサが米国へ持ち帰ったのは3巻の内の「三条殿夜討巻(さんじょうどのようちのまき)」1巻である。群れ集う武士や官人が「三条殿」に馳せ参じ、やがて「三条殿」から火の手が上がる様子が描かれた迫力ある絵巻だ⬆。この《平治物語絵巻》は、もとは旧三河国西端(にしばた)藩主本多家の所蔵であったが、明治期に故あって市場に流出していた。この絵巻を手に入れた道具商は500円(現在価値で約1200万円)で売り歩いたが なかなか買い手がつかなかった。たまたまフェノロサに見せたところ、「言い値の倍にあたる1千円で買う」と言い、ただし条件として「誰に売ったかは絶対に口外しないように」とフェノロサは道具商に強く申し入れたという。どうやらフェノロサは、この絵巻の海外持ち出しを政府が禁じることを恐れて、道具商の口を封じたようなのだ。こうして「平治物語絵巻」は、明治政府の目を逃れボストン美術館の収蔵品となり、フェノロサは、1890年に米国へ帰国すると、ボストン美術館東洋部長に治まっている。