ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

日本かぶれジャステン・ビーバー夫妻はワパニーズだ。

世界的なトップモデルであり、夫でスーパースターのジャスティン・ビーバーとともに、大の親日家として知られるヘイリー・ビーバー夫人⬆️。世界29地域で発行される女性誌「ハーパーズ バザー」のインタビューで、「今現在、一番ハマっている旅行先は?」という質問に対し、「お気に入りの都市は永遠に日本の東京でしょうね。日本を愛してるんです。料理や文化が大好きなんです。本当に大好きで、日本は何度行っても飽きることがありません。もしも東京で48時間過ごすのであれば、私は絶対に抹茶とともに一日をスタートします。そして渋谷に行ってヴィンテージ(古着)ショッピングをして、ランチには美味しいラーメン、天ぷら、餃子を食べます。両国の 『ステーキ しま』でステーキも食べることになるかもしれません。本当に美味しくてアメージングなんです。そして次の日も同じことを繰り返すでしょうね」と答えている。毎年、お忍びで日本を訪れている「日本かぶれ」のジャスティン・ビーバー夫妻、2005年、英語圏の掲示板4チャンで、wapanese(ワパニーズ)「日本かぶれ」という言葉が侮蔑用語だとして使用禁止となった。wapaneseは、White Japanese(白人のJapanese化)が語源だが、それから20年、白人のwapanese(日本かぶれ)は、ジャスティン・ビーバー夫妻のようなセレブの「自慢話」へと進化したようだ。

 

チビっ子「Youはショウヘイオオタニ?」面食らったスタントン。

メジャー現役最多453本塁打を誇るヤンキースの強打者ジャンカルロ・スタントン外野手が南米の野球王国コロンビアを訪れ、「野球を通じて子どもたちとふれあった」、とMLB公式Xが報じた。MLB公開の動画では、コロンビアの子どもたちから「ジャンカルロ、あなたは僕のヒーローです!」と出迎えられたスタントン。トスバッティングで子どもたちに「ナイス!」と声をかけて優しく指導する微笑ましい光景が流れた。そんな中、「あなたは、ショウヘイ・オオタニか?」とチビっ子の一人から突然尋ねられるシーンが⬆️、するとスタントンは「僕は投球はできないんだよ。だからそれについての答えはわかるよね」と、スマートな答え方をした。このやり取りをMLB公式Xは「コロンビアの野球教室に参加したチビっ子の一人が、スタントンを窮地に追いやる(笑)」とコメントを添えて紹介した。MLBを代表する強打者スタントンでさえ、強打者と剛腕投手の2刀流でプレイする大谷翔平をリスペクトしてることが、こうした場面からも伝わってくる。ヤンキースファンは、いまだにジャッジやスタントンと大谷翔平の「打者」としての能力ばかりを比較したがるが、ジャッジもスタントンもHRは打てても大谷のように160k/hの速球を投げる「投手」は出来ない事実を、スタントンが認めたように、素直に認めるべきだろう。

 

人生で「これにルールなんて無い」と気付いたこと。

米国最大のネット掲示板redditに、人生の中で「これにルールなんて無い!」と気づいたこと、というスレッドが立った。これに対するリプライ、①パーティに招待されて「ありがとう、でも行けません」と理由を何も言わずに断る人を見て、そんなにくどくど断る説明は要らないんだ、と気づいた。②ある人が「その話題について詳しく知らないからコメントできない」と言って黙っているのを見て、沈黙も選択肢なんだと学びました。③幼い頃、小さなミスでも親が口うるさく叱ってたけど、大人になって友人たちと過ごすうちに、ピザを焦がしたり、ミルクをこぼしたりしても世界は終わらないんだとわかりました。④玄関のチャイムが鳴っても必ずしも出る必要はないんだと知りました。⑤大人になってもゲームを楽しんでいいんだと気づきました。自分なりの大人のルールを作ればいい。⑥15歳のとき、実はタバコを吸わなくてもいいんだと気づきました。周囲の大人はみんな吸ってたので、いつか自分も吸うと思ってました。⑦自分にとって害になる友人や家族を切り離してもいいんだと気づきました。特に家族でも逃げていい時がある。⑧クリスマスのプレゼント交換をやめるのも選択肢だと知りました。負担や気遣いが減って精神的に楽になりました。⑨買い物に行くときにメイクしなくても問題ないと気づきました。何も起きませんでした。⑩途中で本を読むのをやめてもいいんだと大人になって気づきました。楽しめない本は無理に読まなくっていい。

 

日本で買って生活が豊かになったモノ、米国人。

「日本でこれを買ったら生活が楽になったという製品はある?」というスレッドが米国最大の掲示板redditに立った。スレ主は、自分はニトリで買ったまな板がウラ面が解凍プレートになっていて、包丁研ぎとおろし金まで付いてる。解凍時間を半分に短縮できたし色んな機能が付いてるから凄く便利だった、と語っている。このスレッドに対するリプライ「日本の電気毛布は神。一晩中つけっぱなしでも電気代はほとんどかからない」「ヒートポンプ乾燥機付きのドラム式洗濯機。東芝製のを買ったけど素晴らしかった。乾燥スピードが速くてシワにもならない」「台所と風呂の壁に使える磁石のフックや収納。これで床やカウンターにものを置かずに済むから掃除が楽になる。ダイソーで買った磁石のフックは、なぜか幾つあっても足りない。いくらでも使い道があるし安い」「一番便利だったのは風呂用の排水溝キャッチャー。ダイソーかどこかで1パック買ってきたけど結構長く使える。どういう仕組みなのかわからないけど抜け毛をしっかり回収して丸めてくれる。次にお風呂に入る前に乾燥するから丸まった髪の毛を摘まみ上げて捨てるだけでいい」「ロボット掃除機ルンバ2台。1台は1階用でもう1台は2階用。階段を昇り降りする機能があればもっと便利だけど」「スケッチャーズのスリッポンを買った。これが最高だった。最初は靴が脱げそうな感じで嫌だったんだけど慣れてきたら全然平気になった。これで靴のかかとを破壊せずに済む」。

「読書は時間のムダだった」英国人記者、10年後に気付いた。

英国の新聞「サンデー・タイムズ」の記者ウィル・ロイドは、10年間で8280時間を読書に費やし、「読書は時間の無駄だった」とある日悟ったという。ロイド記者は、「AIチャットボットに、恐るべき事実を教えられた──⇢300ページの小説を読むのにかかる時間は約10時間だ、フランス語会話の習得に必要とされる時間は600時間、乗馬の基本を身につけるためには2000時間、人をひき殺さずに車を運転する試験に合格するには、わずか70時間……。 そんな中、私は10年で8280時間を読書に費やしたのだ。この人間離れした意志力を仮想通貨の取り引きに注いでいれば、いまごろ私は億万長者になっていただろう。あるいはジムに通うこともできたはずだ。あんなに何冊ものD・H・ロレンスの小説を読むより、明らかに運転免許を取るべきだった。私が読書に費やした8280時間は、「自慢」と誤解されるかもしれないが、そもそも何を自慢するというのか。ゴルフのPGAマスターズ・トーナメントのようなものが読書家向けにあるわけでもない。読書に費やしていた時間、TikTokで犬のオナラ動画を見ていたほうが、よほど楽しかっただろう。本の世界に深く没頭する「読書」という行為は、私たちの世代で終わる可能性がある。これは文明の崩壊を意味しているはずだ。しかし、大半の人々は、本を読むより、そうしているほうが、きっと楽しいに違いない」。ネットの時代になって益々進む「活字離れ」、人類の「文明」はどこへゆくのだろうか。

 

火葬したら体内から花火、十辺舎一九の洒落たお葬式。

江戸時代後期の戯作者で、ヒット作品『東海道中膝栗毛』の作者として知られた十辺舎一九⬆️。読者の嗜好をいち早く察知し、先行作品を巧みに脚色編集する能力に長けていて、総作品数は580種を超え、滝沢馬琴と並ぶ江戸期文学史上の最多作者とされる。また、戯作の執筆のみで生計を立てた最初の作家とも言われ、享和2年(1802年)に出した『東海道中膝栗毛』が大ヒットして一九はいちやく流行作家となった。当時の生活について「最近ではいつも出版元から係の人がきて、机の横で原稿ができあがるのを待ってます」と、現代の流行作家にも通じる日々について描写している。しかし、文化7年(1810年)46歳のときに眼を病み、しばしば再発した。文政5年(1822年)58歳のときに中風を患い、晩年は創作には手を出さず、飲酒により身体に不自由をきたし、天保2年(1831年8月7日、67歳で没した。辞世の句は「この世をは とりやお暇に線香の 煙とともに灰さようなら」。人気戯作者一九らしいユーモアあふれる「辞世の句」だが、火葬にされる際、一九が予め体に仕込んでおいた花火に点火し、それが打ち上がったという逸話が残されている。しかし、これは「辞世の句」をヒントにした落語家の初代 林屋正蔵による後世の「作り話」であるとされている。

 

近親相姦、自分の「体験」を小説にした文豪、島崎藤村。

1900年代、小説「破壊」や「夜明け前」など我が国の自然主義文学の旗手であった島崎藤村⬆️。その彼が41歳頃に当時20歳の姪を妊娠させ、パリへ逃亡した一部始終をほぼ実名で告白した私小説「新生」をご存知だろうか。教職を辞し、『破戒』や『春』といった小説で高い評価を得ていた1910年(明治43年)に妻・冬子が亡くなり、4歳の長男を筆頭に4人の子どもを男手ひとつで育てなければならなくなった藤村は、次兄・広助の次女こま子⬆️に頼んで身の回りの世話の手伝いに来てもらう。やがて藤村は若く瑞々しい肉体を持つこま子に欲情し、叔父と姪の血縁であるにもかかわらず関係を持ってしまう。しかし、こま子の妊娠が発覚すると、1913(大正2)年に「留学」という名目でパリへと逃亡する。こま子は藤村の外遊中に出産し、生まれた子どもは次兄・広助によって里子に出された。その後、1916(大正5)年までの約3年間、藤村はパリで過ごしている。しかし、パリから帰国した藤村は、なんとこま子とよりを戻してしまう。これを知った次兄・広助は流石に怒って藤村に絶縁を告げたという。そして、こま子は台湾にいる伯父秀雄(藤村と広助の長兄)のもとへと引き取られ、ふたりは完全に別れることとなった。島崎家の長兄・秀雄によれば、実は藤村の父親も実の妹と関係があったことが明かされ、「近親相姦」は、島崎家の遺伝子DNAの所為だったと判明したのだ。