ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

小澤征爾さん、26歳でN響とケンカ別れして世界のOZAWAになれた。

指揮者の小澤征爾さんが、心不全のため88歳で亡くなった。「世界のOZAWA」の訃報に世界中のメディアが弔慰を表した。1959年スクーターギターを積んで貨物船で単身フランスに渡った24歳の小澤青年、パリ滞在中にブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した後どういうキャリアを積んで「世界のマエストロ」にまで上り詰めたのか。彼は同年カラヤン指揮者コンクールでも第1位となり伝説の指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンに師事、2年後の1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任し、指揮者の世界的 巨匠レナード・バーンスタインに師事、同年こうした輝かしい経歴を引っ下げて帰国、NHK交響楽団の指揮者に26歳の若さで就任した⬆。ところが、アメリカで主に学んだ小澤青年の音楽とベルリン・フィル的な欧州音楽に慣れたN響の音楽観の違いによってN響が「小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明、小澤青年は N饗の指揮者をわずか1年半で辞任、「日本では今後音楽活動をしない」と決めて再び渡米した。1964年シカゴ交響楽団に招かれ音楽監督として「ラヴィニア音楽祭」を成功に収めたことで29歳の小澤青年の名声は全米に知れ渡った。1973年38歳でアメリカ五大オーケストラの一つボストン交響楽団の音楽監督に就任、2002年正月、日本人指揮者として初めて欧州ウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは世界同時生中継され、CDの売り上げ枚数は100万枚を超え、この後ウィーン国立歌劇場音楽監督にも就任した。26歳でN饗とケンカ別れした事をキッカケに日本を出て世界を股にかけるマエストロになった小澤征爾さん、心からご冥福を祈りたい。