ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

無人島で13年、江戸時代のロビンソン・クルーソー野村長平。

5年(1785年)土佐の船乗り野村長平が船頭を務める三百石船が、 江戸に向けて御蔵米を運搬中に土佐沖で嵐に遭い、舵や帆柱を失って漂流、12日後に江戸の南方海上582kmにある無人島の鳥島に漂着した ⬆。漂着した時には長平以外に3名の乗組員がいたが、漂着後2年以内に相次いで死亡、以後長平は無人島で独りきりの生活を余儀なくされる。鳥島での主な食物はアホウドリの肉と卵、それに少量の海産物であり、火打石が無かったため、生で食した。またアホウドリの肉を乾燥して保存し主な栄養源とした。水は雨水をアホウドリの卵の殻(鶏卵の5〜6倍の大きさ)に蓄え、長平は一日に飲む水の量をアホウドリの卵の殻で作った容器1個分と決めていた。また、アホウドリの羽を縫い合わせて敷物や衣服を作った。。月を観察して三日月を見た回数から年月を把握して3年後、大坂備前屋亀次郎船の11人が鳥島に漂着、さらに2年後に日向国三右衛門船の6人が漂着し、鳥島の無人島生活者は長平を含めて18名となった。長平らは、船を作って鳥島を出ることを決意、 漂流者の中に鍛冶船大工の経験者がおり、難破船から回収した工具やかつての漂流者が残した船、自作のふいごで古い船釘やを溶かして製造した大工道具を造船に用い、船の素材には流木を、には衣類を用いて船を完成させたが造船を決意してからすでに5年の歳月が経過していた。造船中に死亡した4名を除く14名全員が完成した船に乗り込み、寛政9年(1797年)6月8日に鳥島を出港、数日の航海で青ヶ島を経て、無事八丈島に辿り着いた。長平にとっては12年4ヶ月ぶりの日本への帰還であった。江戸での取り調べが済んだ一行は、それぞれ帰路に散った。野村長平が故郷の土佐に帰還した時、地元では長平の13回忌の法要が営まれている最中であったという。