ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

種子島伝来の火縄銃、たった1年で国産化したニッポン。

我が国への鉄砲伝来は、1543年種子島に漂着したポルトガル人が持っていた2丁の火縄銃を、種子島の領主「種子島時尭」が買い取ったのが始まりとされている。種子島時尭は、買い取ったうちの1挺を種子島の刀鍛冶に貸し与え、火縄銃の複製を作るように命令し、わずか1年余りで国産化に成功した。ポルトガル人が持っていたのはヨーロッパで作られた火縄の燃焼が遅く弾丸発射まで時間のかかる「緩発式火縄銃」ではなく、東南アジアのマラッカで改良された引き金を引くとすぐに点火し弾丸が飛び出す「瞬発式火縄銃」だった。その後、根来、堺、国友で「瞬発式火縄銃」の量産が始まり、鉄砲伝来から6年後の1549年には、織田信長が500挺の鉄砲を国友に発注した記録が残っている。国産化された火縄銃は銃身においても筒部に錬鉄を鍛造したものを用い大量の火薬の爆発力にも耐える性能があり、筒部の先端に照準器をつけることで命中率を飛躍的に向上させ100メートル程度先の狙撃が可能だった。米国の銃専門家が「日本の江戸時代製の火縄銃は近代の火薬を使っても爆発しなかった。昔の日本の職人の技術は最高級の賛美に値する」と評価したほどだ。「日本製火縄銃は、刀鍛冶の技術を受け継ぎ、鍛鉄で量産されるようになった。種子島でポルトガル人から種子島時尭(ときたか)が1挺1000両で購入した鉄砲は1614年には1挺2.5両で輸出されるようになった」(ノエル・ペリン著『鉄砲を捨てた日本人』より。400年以上前の戦国時代、我が国がすでに世界に誇れる工業技術大国であった事は、紛れもない事実だったのだ。