ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

アンディ・ウォーホルが肖像画を描く約束をした高田賢三氏が死去。

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日本人のデザイナーとして初めてパリのファッションシーンで注目を集めKENZO(ケンゾー)ブランドで世界的なフアッションデザイナーとなった高田賢三氏がコロナに感染しパリで81歳の生涯を閉じた。ケンゾー氏自らが「私の黄金期」と呼ぶ70年代から80年代の私生活について自伝「夢の回想録」の中でこう語っている。「創造を続けるデザイナーには、それ理解し、共感し、励ますパートナーの存在が絶対に欠かせない。仕事でも私生活でも互いに寄り添い、固い絆で結ばれた人生の伴侶が必要になる。当然のことながら、相手は異性のこともあれば、同性のこともある。多くの教養や財力をもち、人間として尊敬できる相手でなければとてもその関係は成立しないだろう。イブ・サンローランにはベルジエ、カール・ラガフェルドにはジャック、そして私にはグザビエ(⬆上写真高田氏の隣)というそれぞれ男性パートナーがいた。日本人にはまだまだ理解しにくい(ゲイ)世界かもしれないが、パリでは決して珍しいことではない。それがモードの発信力にもなっていた」。さらにケンゾー氏はニューヨークのゲイ仲間が集うディスコへも頻繁に出入りした。1986年マンハッタンにある伝説的ディスコ「スタジオ54」。ここで銀髪のかつら、蝶ネクタイを締め“夜の帝王”として君臨していたアンディ・ウォーホル(⬆上写真右中央)と出会い意気投合、ウォーホルに肖像画を描いてもらうことになり、彼のスタジオ「ファクトリー」で写真を撮ってもらったが、ウォーホルが心臓発作によって急死したためウォーホル作「ケンゾーの肖像画」は幻となってしまった。20世紀アートの第一線で活躍し続けたニッポン人、高田賢三氏のご冥福をこころからお祈りしたい。