ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

日米開戦、アメリカ本土を2度空爆したパイロット藤田信雄。

日米が対戦した太平洋戦争、日本軍は惨憺たる敗北を喫し、米軍機による本土への繰り返しの空爆によって日本国土は焦土と化してしまった。しかし、真珠湾攻撃で戦果を上げた開戦当初には、日本の戦闘機がアメリカ本土への空爆を行った事実があるのを知る人は少ない。アメリカ合衆国の歴史の中で、唯一アメリカ本土に対して航空機による 世界初の爆撃を実施し、後にルックアウト空襲とよばれる爆撃を敢行したのは日本帝国海軍の戦闘機パイロッㇳ藤田信雄飛曹長⬆だった。1942年9月9日、米国オレゴン州沖に浮上した潜水艦伊25から藤田が搭乗する戦闘機は2個の焼夷弾を積んで飛び立ち、藤田の投下した焼夷弾でオレゴン州ホイーラーリッジでぼやが発生した。さらに3週間後の9月29日、藤田は2回目の爆撃を行うため出撃、ケープブランコ灯台を目印にし、東への90分後のフライトの間に藤田は爆弾を投下し炎を見たと報告したが、爆撃はアメリカ側には認知されることなく終わった。そして、終戦後1962年、日本政府からアメリカ政府が藤田を探していることを告げられ、アメリカ行きを命じられる。藤田は戦犯として裁かれるのではないかと考え、自決用に自宅に代々伝わる日本刀をしのばせ渡米したが、オレゴン州ブルッキングズ市はかつての敵国の英雄である藤田をフェスティバルの主賓として招待したのだった。アメリカで大歓迎を受けた藤田は自らの不明を恥じ、持っていた刀を友情の印としてブルッキングズ市に贈呈した。アメリカ国内に2度に渡って空爆したパイロット藤田信雄を英雄として迎えた米国市民、そのフトコロの深さには驚かされる。