ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

日本人宇宙飛行士初予定の毛利衛を出し抜いたTBS。

1985年宇宙開発事業団から、日本人初の宇宙飛行士計画が発表された4年後の1989年、テレビ局TBSが、創立40周年事業として壮大な企画を実施しようと考える中、TBSモスクワ支局からソビエト連邦宇宙総局が「1400万米ドル(約20億円)を支払えば、宇宙飛行士搭乗に関する協定を締結しても良い」という情報が飛び込んできた。TBSは創立40周年事業にふさわしい企画としてすぐさま協定を締結。TBS社内の98人の応募者の中から、同年9月に記者であった秋山豊寛氏(⬆上左)が宇宙飛行士候補に選抜された。秋山氏はモスクワ郊外の宇宙飛行士訓練センターで1年間訓練を行い、1990年12月2日バイコヌール宇宙基地から宇宙船ソユーズに搭乗して、日本人初の宇宙飛行士となったのだ。このTBSの快挙のウラで、ショックを受けたのが日本人初の宇宙飛行士に予定されていた毛利衛氏だった。毛利衛氏(⬆上右)の宇宙初飛行は1988年に予定されていたのに、1986年に起きた宇宙船チャレンジャー号爆発事故の影響でスペースシャトル搭乗が正式に決まったのは1990年4月24日、TBS秋山氏が宇宙へ飛び立つ7ヶ月前のことだった。さらに、毛利衛氏がスペースシャトルエンデバーで宇宙へ飛んだのはTBS秋山氏の初飛行から2年遅れの1992年9月12日だった。当時の日本では、日本人初の正式な宇宙飛行士に予定されていた毛利衛氏の知名度が非常に高く、それを出し抜いた格好で日本人初の宇宙飛行士となったTBS記者秋山豊寛氏に「違和感」を憶えた人が多かった。日本人初の宇宙飛行士にアクシデントで遅れを取った毛利氏だが、2000年2月にエンデバーで2度目となる宇宙飛行にも参加、その後に続く日本人宇宙飛行士のパイオニアとして「毛利衛」という名前は人々に記憶されることになったのだ。