ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

プレスリーはなぜジョン・レノンを許さなかったのか。

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ビートルズが出現する以前、「キング・オブ・ロックンロール」として世界にその名を馳せたエルヴィス・プレスリー(⬆上写真右)。プレスリーに子供の頃から憧れていたビートルズの4人が1965年8月27日、ロサンゼルスのプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことはロック史に残るエポックメーキングとして知られている。ビートルズの4人と初対面したプレスリーは、彼らの曲を目の前で歌い、そのあとで「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。これに対してレノン(⬆上写真左)は「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したことからその場の空気は一変してしまったという。これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはそのレノンの発言に気分を害してしまった。レノンはさらに当時アメリカ軍による関与が拡大を続けていたベトナム戦争にプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判した。これらの発言をきっかけにプレスリーはレノンを極度に嫌うようになり、自分のコンサートでマッカートニーやハリスンの曲は頻繁に取り上げていたが、レノンの曲は一切取り上げようとしなかった。さらに、プレスリーはレノンが後年アメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行っていた頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したほどレノンを嫌ったという。ロック界の天才同士の1度きりの出会い、すでに一世を風靡して「ロック魂」を忘れかけていた30歳のプレスリーに正面切って批判を浴びせた25歳のジョンレノン、ロック史に残る出会いであった。