ブラックホールの理論は、アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論が発表された直後の1915年に、理論の骨子であるアインシュタイン方程式を使ってドイツの天文学者カール・シュヴァルツシルトが、ブラック・ホールの存在を予言した。しかしアインシュタイン本人は、それはあくまで数学的な話であって現実にはブラック・ホールの存在は有り得ないだろうと考えていた。それから15年後の1930年に「ブラックホール」が存在するという事実を初めて理論的に証明したのは、英国ケンブリッジ大学に留学していた19歳のインド人の天才少年、チャンドラセカール(⬆上の写真)だった。チャンドラセカールは「白色矮星の質量には上限があることを理論的に導き出し、質量の大きな恒星は押しつぶされてブラックホールになる」と、ブラックホールの存在を初めて理論的に導き出して見せたのだ。ところが、イギリスの天体物理学界の大御所であったアーサー・エディントンは、この「天体物理学最大の発見」をまともに検討すること無く頭ごなしに否定した。当時、英国科学会の重鎮だったエディントンのこの態度の影響は大きく、結果チャンドラセカール少年の指摘は誰にも省みられること無く忘れ去られてしまう事となったのだ。この事件が、ブラックホールの本格的な研究を始めるのを1960年代にまで大幅に遅れさせてしまった最大の原因とさえ言われている。英国で認められる事が無かったチャンドラセカールはその後アメリカへと渡り米国天文学界で数々の業績を残し、1983年「星の構造と進化にとって重要な物理的過程の理論的研究」でノーベル物理学賞を受賞している。1999年に打ち上げられたNASAのX線観測衛星「チャンドラ」は、彼にちなんで名づけられた衛星だという。