ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

番狂わせラグビー日本、「奇跡なんかじゃない」逆転トライの福岡。

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ラグビーW杯、日本が優勝候補の一角であるアイルランドに10度目の対戦で初めて勝利する奇跡を起こした。TV観戦していて、テンポの速い日本のラグビーに、格上のアイルランドが手を焼いている様子がアリアリだった。日本ペースで試合は進み、速いテンポの連続攻撃にアイルランドがついていけないという場面がしばしばだった。9−12の僅差で前半を終え、後半18分に途中出場の福岡選手がついに逆転のトライを決める(⬆写真)。試合後、福岡選手は自身のTwitterに「奇跡なんかじゃない! W杯第2戦アイルランドに勝利! 急遽変更での出場だったけど、チームのみんなが最高のパフォーマンスをしてくれたおかげで、良いトライを取ることができました!」とツィート。敗れたアイルランドのロリー・ベスト主将も「こちらもミスもありましたが、日本がよいプレーをした。結果は残念ですが、日本チームが強く当たってきた」と日本FW陣の力強さをたたえた。日本の勝因は、出足の鋭いディフェンスを貫いた事とタックルが激しく的確だった点だ。アイルランドの大型フォワードの突進には、下と上への2人がかりで止める「ダブルタックル」で食い止めて後退させ、相手の攻撃を最後までリズムに乗せなかった事が大きかった。リーチ・マイケル主将は「やってきたことをすべて出した。選手が勝ちたいというメンタリティーが一番重要。(選手の)意思統一できたことが大きい」と勝因を語った。今回の勝利が福岡選手が言うとおり「奇蹟なんかじゃない」ことを日本代表がこの試合で貫き通した「攻めの姿勢」から学ぶことができた。

日本占領のマッカーサー、なぜ「日本は12歳の少年」と評したか。

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日本の敗戦時に米軍の最高司令官だったダグラス・マッカーサー。敗戦から6年後の1951年にアメリカ上院軍事外交合同委員会において、同じ敗戦国であったドイツと日本を比較して「科学、美術、宗教、文化などの発展の上から見て、アングロ・サクソン民族が45歳の壮年に達しているとすれば、(敗戦国である)ドイツ人はそれとほぼ同年齢である。しかし、日本人はまだ生徒の段階で、まだ12歳の少年である」と発言、これを聞いた当時の日本人の多くは、この発言により、マッカーサーから日本が愛されていたのではなく、軽蔑されていたに過ぎなかったことを思い知らされる。同じ日の公聴会でマッカーサーはさらに「日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって(日本占領に)現れた時、日本人に強い印象を与えた、それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である」などと日本人を「自由主義」を知らない幼稚な民族と見下した侮辱発言も行っている。しかし、この発言を日本人として好意的に受取り、なぜマッカーサーが「12歳」と言って「13歳」でなかったのかは、英語の感覚で言えば12歳は「ティーンエイジャー」ではまだないという意味であり、まだ精神年齢が熟しきっておらず、(これから先)日本人が新しい事柄を受け入れることが可能だと強調しているのだ、とマッカーサーの発言を擁護する意見もあった。戦後すでに70年以上経った今、あなたはマッカーサーが発した「日本は12歳の少年説」をどのように受け止めますか?

 

日本人顔負けの「相撲オタク」、シラク元仏大統領が死去。

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フランス元大統領のジャック・シラク氏が86歳で死去した。彼は大相撲など日本の文化や歴史への造詣が深く、欧米の指導者の中で類稀な知日派として知られていた。訪日回数は12年間に亘る大統領任期中だけでも40回を超えている。大の相撲ファンで、当時の在日フランス大使館の重要な業務はシラク大統領に場所ごとの取り組みの結果を速報することだったという。訪日時にはメモ用紙を片手に大相撲観戦を欠かさなかった。シラク氏は愛犬のマルチーズにもSumou(相撲)と名付けていた。1986年に行われた大相撲のパリ巡業の際には、シラク氏はパリ市長として自ら相撲巡業を主催、9年後1995年の2度目の大相撲パリ巡業ではフランス大統領として自ら主催者になっている。シラク氏が大統領を辞めたあと仏大統領を引き継いだサルコジ氏が、「ポマードをべったりつけて髷を結った肥満の男たちの格闘に魅了されるとは理解できない。相撲は、知的なスポーツではまったくない」とシラク氏の相撲好きを批判しても意に介せず、シラク氏は、自身の「回想録」の中で、人生に関する多くの教訓を相撲から学んだと明かしている。相撲について「戦いの前に、2人の力士が相互ににらみ合う視線以上に強いまなざしを知らない」と仕切りの奥深さについて語っている。シラク氏は、仏大統領に就任する前年の1994年夏、自分にとって私人としては最後となるバカンスの思い出にと、夫人と共に一ヶ月間日本に滞在、松尾芭蕉「奥の細道」の史跡を巡っている。シラク氏の「相撲愛」「日本愛」はまさに正真正銘のホンモノだった。ご冥福を祈りたい。

 

 

欽ちゃんの金言。「あの人のために何とかしたい」は成功する。

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お笑い芸人のレジェンド欽ちゃんは、2015年社会人入試で駒澤大学仏教学部に合格し4年間の勉学に励み、卒業こそしなかったがかなりの高成績を残したという。「僕が試験で90点以上取ったもんだから、(単位修得の)40点取れたらいいやって言ってた同級生たちが焦ってね。『このおっさんに負けたのか!』って必死に勉強するようになって、軒並み成績が上がっちゃった。あれには驚いた」と語っている。そして学校での成績についての母親の思い出についても語った。「うちの母親は偉かったですよ。僕がどんな成績の通信簿を持って帰っても、常に同じ対応をするんだから。中学の時、真ん中くらいの成績になったら『わ~っ、きれいに真ん中に揃って』って褒めてくれた。高校生になって250人中210番になった時、さてどう言うかなあと思っていたら『すごいね、後ろに40人もいるね』って。そこからはものすごく勉強しましたね、恩返ししなくちゃと思って。そしたら成績が上から20番めにぶち上がった。通信簿を持ち帰ったら、母親はそ~っと開いてすき間から見るわけ、恐る恐る。で、次の瞬間『あ――っ!』って絶叫してパンって閉じて。拝むようにしながら『母ちゃん嬉しい』って言ったきり、後は何も言わなかった。「その時、学びましたね。相手に対して怒りたいと思った時は怒らない。怒っても意味がないって、それは大人になっても同じなの」。「あの人に世話になったから、あの人のためになんとかしたいな」という気持ちでやった仕事は100%成功する。『喜ばしてやろう』とかね。逆に『よし、これで一儲けするぞ!』では成功しない、絶対」。コメディーで一世を風靡した欽ちゃんならではの「金言」だ。

 

小泉進次郎大臣のセクシー発言、やはり使い方を間違ってた。

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小泉進次郎環境相が、米ニューヨークの国連本部で開かれた環境関連会合に出席し「気候変動のような大きな問題への取り組みは、楽しく、かっこよく、そしてセクシーでもあるべきだ」と演説、これにロイター通信社が反応し「日本の新しい環境大臣が、気候変動との戦いは『セクシーに』と発言」との見出しで世界中に打電して大騒ぎになった。日本人記者から「どういった意味で言ったのか」と聞かれた小泉氏は「それをどういう意味かと説明すること自体がセクシーじゃないよね」と返答し、詳しい説明は避けた。セクシー(sexy)という英語を辞書で引けば「性的魅力のある、セクシーな、性的な、挑発的な、と性的な意味合いがほとんどだが、ワクワクする、魅力的な、人目を引く、といった意味も確かにある。しかし、肝心なのは、意味よりもその使い方なのだ。本来、セクシーという言葉は、何か具体策があるときに使うべき英語なのだという。具体策を何ら持たずに「これから気候変動についてセクシーに取り組みますよ」という言い方は「今からおもしろい話をします」というのと同じくらいダサい表現になってしまい、受け取る側にマイナスな印象を与えてしまうのだとか。どうやら、小泉環境相のセクシー発言が海外マスコミが大々的に取り上げらた一番の理由がその点にあるようなのだ。リップサービスするばかりで何ら具体案を出したことのない小泉大臣らしいこの使い方を間違った「セクシー発言」。これに対して海外のSNS上に「彼は本当に日本の首相になりたいの?ホストの間違いじゃないの?」という声が上がっていた(笑)

日本を「黄金の国」と伝えたマルコポーロはウソつきと言われた。

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720年前、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu)として初めて紹介したマルコポーロ。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本を一度も訪れた事はなく、「東方見聞録」の記述は中国で聞いた日本についての話をもとに「黄金の国」として紹介したものだ。「ジパングはマンジ(中国南部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできていて財宝に溢れている。王を中心にした白い肌の人々が住む巨大な島であり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを産出する国だ」と紹介している。マルコ・ポーロが中国で伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた平泉中尊寺金色堂を指している(⬆上の写真)。当時、奥州(現在の東北地方)は莫大な砂金を産出しており、奥州藤原氏によって国際貿易に使用されていた。マルコポーロが中国に滞在していた13世紀頃、奥州の豪族安東氏が独自に中国と交易を行っており、そこからこの金色堂の話がマルコポーロに伝わったものとされている。マルコ・ポーロの言った「黄金の国ジパング」は当時のヨーロッパでは、にわかに信じられず、彼は嘘つき呼ばわりされた。「東方見聞録」はその後多くの言語に翻訳され、およそ100年後の1400年代に始まった大航海時代に大きな影響を与えアジアに関する貴重な資料として重宝された。アメリカ大陸を発見したコロンブスも、1485年頃に出版された1冊を所有し、書き込みは計366ヶ所にも亘っていたと言う、このことから当時のヨーロッパ人にとって黄金の国ジパングは大いに興味のある国だったと考えられる。そして「黄金の国」ジパングは700年の時を越えて「アニメの国」として今なおヨーロッパ人の憧れの国になっている(笑)

初めて空を飛んだのはライト兄弟では無い、公式記録を発見。

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人類が初めて空を飛んだのは1903年のライト兄弟による初飛行だと言うのが一般常識だが、正確には、2つの点で異論がある。一つ目はライト兄弟から120年前の1783年11月21日にフランスのモンゴルフィエ兄弟が作った熱気球に2人が乗り込みブローニュの森を飛び立って90mの高さで25分間8.8kmの距離を飛んだのが人類初の空を飛んだ記録だという説。しかしこれはライト兄弟が現代の飛行機と同じエンジン動力による初飛行だったのに気流まかせの初飛行なので比較の対象にはならないとされている。しかし、エンジン動力で初めて空を飛んだのも実はライト兄弟ではなくグスタープ・ホワイトヘッド(⬆上の写真で子供を抱いた右端に座る人物)だという説が今日では有力になっている。ライト兄弟がノースカロライナ州キティホークで初飛行に成功する2年以上前1901年8月14日コネティカット州フェアフィールドで、ホワイトヘッドがエンジン付きの飛行機に乗って800mの距離を高度15mで飛行したという。飛行中の写真は残されていないが現場に居たディック・ハウエルによって宙に浮いた機体のスケッチが残されている。しかしホワイトヘッドの飛行は残念ながらきちんとした記録が一度も取られておらず、写真も残っていない。そのためこれら沢山の報告を実証することは非常に困難だ。しかしホワイトヘッドの初飛行の舞台コネティカット州議会はホワイトヘッドの主張を人類初の飛行だと公式に認定している。また航空機の歴史を記録した「ジェーン年鑑」にも、人類初の飛行はホワイトヘッドと記載されている。ホワイトヘッドの飛行がライト兄弟より先だったと言う有力な説について、ある目撃者から「ライト兄弟はホワイトヘッドを訪ねてきてエンジンの購入について話し合い、そして飛行に関する着想と発見を交換していた」と言う証言が残されているためだ。