第一次世界大戦終結後の1920年代に芸術の都フランスでエコールド・パリを代表する画家として認められた唯一の日本人、藤田嗣治(レオナール・フジタ)。女性や猫を描いたその絵は評価が高く、その油絵は現在でも時価数千万円する日本が世界に誇る数少ない洋画家の巨匠だ。その彼が、ピカソのアトリエを訪れたとき、その自由な発想のキュビズム絵画に驚愕し、自分ならではの独自の絵を描こうと決心、誰にも真似の出来ない「白色」の追求によって生み出したのが藤田の透明感のある「乳白色」だった。「乳白色」の下地に、細い線描で描いた数々の作品(⬆上左)は、フジタの人気を不動のものにした。しかし、藤田は、その「乳白色」をどうやって生み出したかは決して口外しなかった。その秘密は唯一藤田の制作現場に立ち会うことが許された写真家土門拳が1942年に撮影した1枚の写真によって露見した。藤田が描く手のアップ写真にベビーパウダーの缶が写り込んでいたからだ(⬆写真右中央)。この事実を、生前の藤田が語ることは無かったが2011年の藤田の絵画作品の修復で画面からタルク(ベビーパウダー)が検出され、藤田がベビーパウダーを使っていた事が裏付けられた。油性の白色下地に水性の墨で絵を描く事は不可能だが、ベビーパウダーを下地に塗ることで、油性下地に墨色の線描を描く事を可能にした魔法の粉だったのだ。パリを驚かせた藤田の透明感のある「乳白色」が、ベビーパウダーの効果だったとは、実に微笑ましいエピソードだ。