ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

9歳で生首を写生、画鬼と呼ばれた幕末の絵師「河鍋暁斎」。

幕末から明治期にかけて活躍した江戸の天才絵師・河鍋暁斎(かわなべ きょうさい) ⬆。3歳で初めてカエルを写生。絵に対する並々ならぬ執着を感じた父親により7歳にして有名な浮世絵師・歌川国芳に弟子入り、9歳の時、長雨で増水した神田川の急流を写生しに出かけた折に川上から流れてきた生首をみつけ暁斎は写生をしようと家に持ち帰り、父親から生首を神田川に戻すことを条件に写生を許されたという逸話が残されている。絵の事に夢中になると我を忘れてしまう暁斎は、成人してからも自宅が焼失するのも気づかず火事の写生に没頭したり、通りかかった女性の帯の柄を写生するために後をつけて変態と疑われたりなど奇行の数々によって周りから「画鬼」と呼ばれた。こうして生み出された暁斎の強烈な個性と圧倒的な画力による作品(⬆上左)は、幕末期の日本人のみならず当時来日した外国からの要人達をも魅了した。フランス・パリのギメ美術館の創設者エミール・ギメを始め「鹿鳴館」を設計した建築家ジョサイア・コンドル、彼は河鍋暁斎に絵を学ぶために弟子入りまでしている。晩年にはアーネスト・フェノロサから東京美術学校(現東京芸術大学の前身)の教授を依頼されたが闘病のため辞退、その2年後、胃がんで弟子のジョサイア・コンドルの手を握りながら逝去した。幕末期の江戸の人々や世界の要人までをも魅了した幕末のシュールな絵師「河鍋暁斎」、グーグル画像で彼の作品をぜひ一度ご覧あれ。