ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

ビートルズ初来日を断ろうとした男、39歳の永島達司。

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1966年2月、ビートルズの日本でのレコードの発売元である東芝音楽工業が、ビートルズの日本公演を希望するという発表を行った。これを受けてビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインが日本の音楽プロモータ永島達司 (キョードー東京創立者⬆上写真右)に日本公演の協力を直接依頼してきたのがビートルズ来日公演実現への第1歩だった。エプスタインはなぜ当時39歳の若い永島に交渉を依頼してきたのか。永島は 幼少期を父親の仕事の都合で海外で過ごし流暢な英語を話し、31歳で日本人初の音楽プロモーターとして、ナット・キング・コールベンチャーズルイ・アームストロングベニー・グッドマンなど世界的なアーティストの来日公演を成功させてきた人物として海外では有名だったからだ。依頼を受けた永島は、先ずエプスタインと国際電話で交渉「ビートルズを扱うことは名誉だし、入場料を1万円としても客は来るだろう。だがファンは未成年が多い。5千円でも負担が多すぎて弊害が生じるだろう」と考え、来日交渉を辞退しようとした。ところが、エプスタイン側から「日本公演は金儲けが目的ではない。むしろ入場料が高すぎてビートルズの評判が落ちることはこちらも望まない。ギャラの点は相談に乗るのでとにかく(ロンドンに)来て欲しい」と言われ、ロンドンでの直接交渉の結果、エプスタインからビートルズのギャラは「1ステージ10万ドル(3600万円)、1万人以上収容できる屋内会場で入場料はティーンエジャーの負担にならないように6ドル(当時のレートで2,160円)以下」という破格の条件が掲示された。これはビートルズが世界各地で行ったコンサートの中でも最低の金額設定だった。こうして、日本の若者でもチケットが買えるA席2100円という入場料が実現したのだ。「若者にも買える入場料金」を交渉の最初から主張した39歳の永島達司、彼の「陰の功績」を知る人は少ない。