生涯に20万を超える句を詠んだとされる正岡子規。その彼を代表する名句が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」だ。しかし、なぜこの句が彼を代表する1句になったのか。この句が1895年11月『海南新聞』に初めて掲載された際にはとりたてて反響があったわけではなかった。当時著名だった俳句選集『春夏秋冬』(1902年)や高浜虚子の『子規句解』(1946年)などにもこの句は入れられておらず、子規の俳句仲間の中で評価されていた形跡はまるでない。では、長い間無名だったこの句がなぜ世間に知られる名句になったのか。この句が発表された頃の法隆寺の管長は佐伯 定胤、彼は、廃仏毀釈によって荒れ果てていた法隆寺を何とか再建しようと案じていた。そんな中、教典研究で法隆寺との繋がりが深く、正岡子規が俳句雑誌『ホトトギス』で「大阪に青々あり」と賞賛した俳人松瀬青々 が、法隆寺管長の定胤に 法隆寺再建の一助になればと「正岡子規には法隆寺を読んだ句がある、その句を法隆寺境内に句碑として建立してはどうか」と提案した。そしてこの句が発表された21年後、1916年9月に、法隆寺境内に子規の筆跡による句碑が立てられたのだ(⬆上右)。この句碑の建立から、「法隆寺の一種の宣伝文句としてこの句が広まっていった」と京都教育大学名誉教授で国文学者の坪内 稔典は、『正岡子規:言葉と生きる』の中で述べている。法隆寺の再建にも貢献し、正岡子規の代表作品にもなったこの句、名句として永遠に残るに違いない。