昭和初期の自由律俳句の俳人として知られる種田山頭火。1925年43歳の時に出家得度して各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。彼の人生は不幸の連続だった。大地主だった父親の放蕩と破産、それを苦にした母親の自殺、神経衰弱による早稲田大学中退、弟の自殺、50歳での自殺未遂など。出家した山頭火は、晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と自らのニヒリズム(無価値な人生)について記している。43歳で無一文の乞食となった山頭火は、旅立ちにあたり「過去一切を清算しなければならなくなってゐる(行乞記)」と日記に記し、雲水姿⬆で西日本を中心に物乞いの旅をしながら句作を行った。たった一人で孤独な旅を続ける中で、山頭火は「自然との対話」を続けながら、自由律の名句を数多く生みだし、それが山頭火にとって生きることの唯一の「証(あかし)」だった。「分け入つても分け入つても青い山」「けふもいちにち風を歩いてきた」「この旅、果もない旅のつくつくぼうし」「また見ることもない山が遠ざかる」「笠にとんぼをとまらせてあるく」「うしろすがたのしぐれてゆくか」「まつすぐな道でさみしい」「生死の中の雪ふりしきる」、そしてニヒリズムの名句「どうしようもない私が歩いている」。晩年は、 愛媛県松山市に移住し「一草庵」を結庵。1940年(昭和15年) 10月11日、脳溢血のため一草庵で57年の生涯を閉じた。