ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

昭和の歌人「小椋佳」は、「西行」にはなれなかった。

日本シンガーソングライターの草分けの一人であり、「シクラメンのかほり」「愛燦燦」「夢芝居」など大ヒット歌謡曲の作詞作曲家でもある小椋佳氏(78)。シンガーソングライターを続けながら東大を卒業し一流銀行の要職を努めるなどエリート人生を歩んできた彼が、人生のラストツアー「余生、もういいかい」の終幕前に自分の人生観をについて語っている。ツアーを最後にする理由は「(歌詞が)3日間うなっていてもろくな言葉が浮かんでこない」「声もだんだんと出なくなり、自分がイメージした声と、実際に歌ったときの声にギャップを感じる」からだという。「長生きしたいとか、健康になりたいとかは、ちっとも思わない。今でもセブンスターは1日40本、コカ・コーラは1.5リットル×6本を1週間で飲み切っています」「78年間生きてきて、くたびれました。人生は苦しいし、しんどい。今の偽らざる心境を表現するとこうなります。もういいかい?」。いやはや、小椋佳のエリート人生の最終章がこれほど「しんどい」のかと同世代の「凡人」である私は、驚きを禁じ得ない。800年前の平安・鎌倉時代を生きた小椋佳氏と同じ歌人であった「西行」は、人生の終末期に「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠み、その望み通り桜の季節3月31日に亡くなり、その美しい「生きざま」は藤原定家など多くの人々の感動と共感を呼び、800年前の当時、大きな名声を博したという。昭和の歌人である小椋佳氏も「西行」に倣って人生の最後に「死にざま」を嘆くより美しい「生きざま」を歌うべきだろう。

死刑執行ボタンを3人が同時に押す日本、海外の意見。

海外の掲示板redditに、「日本では死刑を執行するとき、壁にある3つのボタンを3人が同時に押す⬆。誰が本物のボタンを押したか分からないようになってるんだ」というスレッドが立った。確かに、日本の死刑執行では、3人の死刑執行官が3つのボタンを同時に押し、誰が押したボタンで死刑が執行がされたか分らない仕組みになっている。その理由は、死刑執行官の心的負担を減少するための工夫なのだという。このスレッドに対する海外の反応。「そういう心理的な慰めを施すくらいだったら、死刑自体やめたらいいのに」「ホントその通り。人を殺るなんて良い気分しないだろ」「そもそも死刑には断固反対!後で無罪が分かる人がたくさんいるし!野蛮!」「銃殺刑と同じだね。銃の内1~2丁かは空砲で、兵士はどのどれが空砲だったか知らされない。そうすれば自分は空砲を撃ったんだって慰めになるからね」「1人じゃなくて3人の人間にトラウマを植え付けるのか・・・」「どっちにしろ、3人とも犯罪者を殺すボタンを押す決断したことに変わりはない」。日本国民の意見はどうだろうか。2019年の世論調査では、回答者の約8割が『死刑もやむを得ない』と回答しているが、そのうち約4割の人は「将来的には、死刑を廃止してもよい」と答えている。海外から見て「3つのボタンを同時に押す」という奇妙な死刑執行が無くなる日は、果たして訪れるだろうか。

 

人殺しを描くエネルギーに変えた天才画家カラヴァッジョ。

バロック美術の先駆者であり、人間の姿をあたかも映像のように写実的に描く手法と、光と陰の明暗を見事に描き分ける表現(⬆ゴリアテの首を持つダビデ=手に持つ生首はカラヴァッジョの自画像とされる)で、1600年代初期のローマを代表する革新的な画家として名声を得たカラヴァッジョ。彼は、生来の気性の激しさから数々の暴力事件を起こし、画家として名声を得つつも何度も投獄されるなど波乱万丈の人生を送り、殺人犯として逃避行した先々で数々の傑作を生みだし美術史にその名を残した奇行の画家だ。彼は、2週間キャンヴァスに向かっていたかと思えば、1〜2か月間は剣を持って街をうろついては事件を起こし、留置場送りになった回数は数えきれないという。そして1606年35歳のカラヴァッジョは、知人のトマッソーニという男に「賭けテニス」で負け口論となりカッとなって剣で刺し殺してしまう。死刑宣告を受け、指名手配されたカラヴァッジョはローマからナポリへ逃亡。しかし、ここでも再びケンカをし相手に重傷を負わせてさらにマルタへ逃げながら、次々と傑作画を描いた。殺人を犯す3年前の1603年の裁判記録の中にカラヴァッジョの貴重な「芸術観」発言が残されている。「すぐれた画家とは、自然の事物をうまく模倣することのできる画家だ」。彼が求め続けたリアル(写実)、残酷な場面を数多く描いたカラヴァッジョの絵画⬆は、まるで彼自身の体験がモチーフとなっているかのようだ。芸術という「光」と凶暴性という「影」の2つを併せ持った人間カラヴァッジョ、殺人事件から3年後、恩赦を受けるためローマへ向かう途中、熱射病で亡くなった。記憶に残る天才肌の画家だったことは間違いない。



『スタンド・バイ・ミー』マイケル・ジャクソンが歌う予定だった。

ロブ・ライナー監督が、ホラー作家スティーブン・キングの短編集『恐怖の四季』の中に収められた少年時代の思い出を綴った『ザ・ボディ』(1982)を基にした1986年公開の映画『スタンド・バイ・ミー』。この映画を名作にしたのは、あの「When the night」の歌詞で始まるベン・E・キングのどこか懐かしく切なさを感じる歌声のせいだ⬆。この映画の元になった小説のタイトルは「ボディ」(死体)であったため、ロブ監督はタイトル変更を検討し、20年以上前にヒットしたベン・E・キングの曲名を拝借し、これを当時「スリラー」の大ヒットで人気絶頂だったマイケル・ジャクソンに歌わせようと思いついた。このことについて、映画「スタンド・バイ・ミー」にテディ役で出演しマイケル・ジャクソンと仲の良かった俳優コリー・フェルドマンが当時「マイケル・ジャクソンから『スタンド・バイ・ミー』を歌うことを依頼されてると相談を受けていた」と証言している。俳優のコリーは、さらに2011年にロブ監督にあらためて「映画用のオリジナル曲をマイケルに依頼したのか?」という質問をしたところ、ロブ監督は「マイケル・ジャクソンに“スタンド・バイ・ミー”を歌うことを依頼した」と答えたという。しかし、映画の時代設定が1959年だったことから、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」が1960年代の歌で時代に合っているという理由でベン・E・キングの歌の採用を決定、マイケルが歌う『スタンド・バイ・ミー』は幻になってしまったのだという。

 

4chanヒロユキは、倫理観に欠ける無責任男とNYタイムズ。

匿名掲示板2ちゃんねる創設者の西村博之氏が 2003年10月1日に開設し、管理・運営する、主に英語圏を対象とした世界最大規模の画像掲示板4chanをあなたはご存知だろうか。この4chanを管理運営する西村博之氏⬆について、ニューヨークタイムスが批判記事を書いている。「西村博之の経営指揮の下、4chanはインターネットにおいて最も有害な場所となった。しかしこのサイトが米国内の銃乱射事件や陰謀論と結びついてなお、ほとんどのアメリカ人は西村の名を知らない。また、そのサイト名は西村の肩書きの一部としてほぼ常に言及されるにもかかわらず、ほとんどの日本人は4chanについて多くを知らないのだ。彼が(英語・日本語を問わず)4chanについてめったに語らないことが、その理由の一つである」「西村は自身に倫理感が欠けており、社会規範の限界を押し広げようとしてきたことを過去に誇らしげに語ってきた。「恥」に対する彼のほぼ完全な無関心っぷりは、日本においては、ある種の非常に強い力となるのであり、それが彼の成功の大きな要因となってきたのだ」「46歳となる西村は、後続サイトへのお手本ともなってきた2ちゃんねるの戦略を4chanの経営においても踏襲した。すなわち「サイト内はできるだけ規制せず、変えろという声はすべて無視する」である」。以上は批判記事のごく一部なのだが、ミソジニー(女性蔑視)、白人至上主義、虚無的なヘイトに満ち溢れているこのサイトの日本人運営者に、NYタイムズはかなり苛立っているようだ。

名曲「ミスティ」作曲のエロル・ガーナーもしかして盗作と悩んだ。

ジャズボーカリストが必ず歌うスローバラードの定番となっている名曲「ミステイ」。この曲をつくったエロル・ガーナーは、大げさな言い方をすれば、この1曲だけでジャズの歴史に名を残したと言えるだろう。1954年、33歳のガーナーがレコーディングのため、ニューヨークからシカゴに向かう飛行機の機内で、窓の外に見える霧(ミスティ)にインスピレーションを得て、ふとメロディが浮かんだという。それが名曲「Misty」の誕生した瞬間だった。ガーナーは機内で浮かんだメロディーを必死で覚えて、シカゴで泊まったホテルのピアノで早速曲を完成させたという。正式な音楽教育を受けたことのないガーナーは、楽譜の読み書きがほとんどできなかったため、出来上がった曲があまりに良いメロディだったので、以前どこかできいた曲を自分が無意識にパクってしまったのではないかと、後々までずっと心配していたという。しかし、発売された「ミスティ」は評判を呼び、翌年にはジョニー・バークが詞を付け、59年にジョニー・マティスが歌って大ヒット。エロル・ガーナーの名は世界に広く知られることになったのだ。ほとんど独学でピアノを習得したガーナーのピアノの弾き方は独特。左手のバッキング(歯切れのよい奏法)に少しタイミングをずらしたように入る右手のソロ、彼独特のスイング感あふれるジャズピアノ演奏をYouTubeでご視聴あれ。

 

何とまあ、「辞世の句」まで絵にしていた葛飾北斎。

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卒寿90歳まで長生きした江戸時代を代表する浮世絵師の葛飾北斎。「葛飾北斎伝」(飯島半十郎1893年)に書かれている北斎の臨終の場面「嘉永二年、翁(北斎)病に罹り、医薬効あらず、是よりさき醫師、竊に娘の阿栄に謂て曰く、老病なり、醫すべからずと、門人および奮友等来りて、看護日々怠りなし、翁死に臨み、大息し天我をして十年の命を長ふせしめばといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す」。現代語に訳すと、「死を目前にした翁(北斎)は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら…』と言い、しばらくして、さらに、『天があと5年の間、命を保つことを私に許されたなら、本物の画工になり得たであろう…』とたどたどしく言いながら死んだ」となる。「葛飾北斎伝」には、上記の文章と共に、北斎の「辞世の句」が書き残されている。「人魂で 行く気散じや 夏野原」(⬆上図参照)。現代語に訳せば、死んだら「人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というところだろうか。北斎の燃える魂が、夏の夜、原っぱに浮遊している図が目に浮かぶ、北斎らしい「絵になっている辞世の句」だと想いませんか。