ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

「私はスパイ」シーボルトは高野長英に告白した。

今から194年前の文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であったシーボルト(⬆上左)が帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた伊能忠敬の日本地図の写しが見つかり、それを贈った幕府天文方高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した。シーボルトはその翌年に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。シーボルトは医師として日本に赴任しながらなぜこうした行為に及んだのか。その理由は、プロイセン(現在のドイツ)政府から日本の「内情探索」を命じられたからだとされている。シーボルトが長崎で医学蘭学を教える「鳴滝塾」を開校し、その塾頭だった高野長英(⬆上右)から「医師以外の肩書は何か」と問われたシーボルトは、「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと蘭学者仲間の渡辺崋山が証言している。これは正しくは「コレスポンデントヴェルデ」であり「内情探索官」つまりスパイを意味する言葉だ。信頼のおける弟子だった高野長英も渡辺崋山もシーボルトが心を許して打ち明けた「内情探索官」について他言しなかったが、シーボルトは、北海道の北にある樺太(サハリン)を測量できなかった伊能忠敬に代わって測量を行い測量図を作った間宮林蔵宛に、その測量図を手に入れるべく丁重な手紙と布地を送ったが、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。そして、間宮林蔵がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、高橋景保が捕らえられ取調べを受け、シーボルトも、伊能忠敬の日本地図写しの返還を拒否したために国外追放に至ったのだ。