ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

本能寺で勇敢に戦った黒人サムライ「弥助」が明智光秀に降伏したその後。

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戦国時代に宣教師所有の奴隷として日本に渡来し、戦国大名・織田信長への献上品とされた黒人が、信長に気に入られ、その家臣として召し抱えられ、日本名まで与えられた黒人サムライ「弥助」。ハリウッドで映画化されることが決定し、あらためてその人物像に注目が集まっている。「信長公記」によれば、年齢は26歳~27歳ほどで「十人力の剛力」「牛のように黒き身体」と描写され、身長は六尺二寸(約1.82m)あったとされている。信長にサムライとして召し抱えられた黒人「弥助」は、織田信長が武田勝頼を討つための「甲州征伐」にも従軍していたことが徳川家康の家臣が目撃し、日記に記している。その記述には、弥助は下人や年季奉公人のような隷民(奴隷)ではなく扶持もちの士分(侍)であったとはっきり書かれている。天正10年6月2日の「本能寺の変」の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀軍の襲撃に遭遇すると、二条新御所に駆けつけ異変を知らせ、信長の後継者の信忠を守るために明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』の記述によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴(弥助のこと)が、信長の死後、世子(信忠)の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、「恐るることなく『その刀を差出せ』と言ったためこれを渡した」と弥助が降伏した様子が記述されている。家臣に「弥助」をどう処分するか聞かれた明智光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず、「インドのパードレの聖堂(京都の南蛮寺)に置け」と言ったので、南蛮寺に送られることになり、弥助は一命を取り留めたという。その後の黒人サムライ「弥助」の消息については、記述された史料が一切残っていないため、全く不明とされている。