桜咲く季節になると必ず話題に上る「花の下にて春死なん」の歌を詠んだのは平安〜鎌倉時代を代表する歌人西行だ。裕福な武家藤原氏の出でありながら23歳で栄達の道を捨て妻子も捨てて出家し、その生涯の多くを漂白の旅に費やしながら花鳥風月の多くの歌を詠むという自由奔放な生き方を貫いたその人生、西行の歌は八百年の時を越えてなお現代人の心に不思議な力で響いてくる。その西行が「終の棲家」にしたのが河内国(現在の大阪府)の弘川寺だった。「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」という有名な歌は恐らくこの地で詠まれたものと思われるが、西行は建久元年(1190年)の陰暦2月15日(きさらぎ)の釈迦の涅槃(入滅した)日に、文字通りに歌に詠んだ桜咲く春、満月(望月)の季節に73歳で大往生を遂げている。自分が死ぬのに理想的な月日を歌に詠み、その望みどおりに亡くなったことから、当時の歌人藤原定家や慈円などがその「奇跡」に感動し、京の都では西行の名は一層の名声を博したといわれている。そんな西行が若い頃に「人造人間を造ろうとした」というエピソードが残されている。寿永2年(1183年)に作られた説話集「撰集抄」に書かれている西行の霊験譚だ。高野山に住んでいた頃(1150年代30代の頃)、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、西行は反魂の術を使って人を作ろうとした。しかし上手く行かずつまらなく思い、その後、人を作ることはなかったという。思い立ったら実行に移す、西行は「人造人間」を作ることは出来なかったけれど、望みどおりに「花の下にて春死なん」の奇跡を起こしてみせた中世の「自由人」と言えるのではないだろうか。