江戸幕府が鎖国政策を取る直前の寛永9年(1632年)、平戸藩士で加藤清正の重臣森本一久(儀太夫)の次男森本一房は、亡くなった父の菩提を弔い、年老いた母の後生を祈念するために南天竺(現在のカンボジア)にあるとされた祇園精舎「アンコール・ワット」を目指して長崎の平戸港から御朱印船(幕府が公認したアジア各国との交易船)に乗り込み、参拝に訪れた。祇園精舎がインド中部にある仏教寺院で、釈迦が説法を行った場所とわかったのは19世紀に入ってから、17世紀の江戸時代はカンボジアのアンコール・ワットが祇園精舎であると多くの日本人が考えていた。森本は参拝の後、アンコールワットの回廊に次のような「落書き」を記した⬆。「寛永九年正月初めてここに来る、生国は日本、肥州の住人藤原朝臣森本右近太夫一房、御堂を志し数千里の海上を渡り、一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために、ここに仏四体を奉るものなり、老母の亡魂、明信大姉の後世のためにこれを書くものなり」。サムライであった森本はアンコールワット遺跡に落書きをするという「蛮行」をなぜ行ったのか。日本から遥か4000km日本人が誰も来たことの無い遠い異国で、これほどまで偉大な仏教遺跡に辿りついたという達成感は計り知れず、自分が確かにここに辿り着いたのだという「証」をどうしても残したくなったからに違いない。21世紀の日本からアンコールワットまでは飛行機で約10時間、森本右近太夫一房が400年前に長い船旅の末にようやく辿り着き「落書き」した墨跡、一度見に行ってみては如何だろう。