蝉の声がにぎやかな季節になると思い出されるのは松尾芭蕉の名句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」だ。『奥の細道』の中でも秀吟の句として知られているこの句は、松尾芭蕉が元禄2年5月27日(1689年7月13日)に出羽国(現在の山形市)の立石寺(山寺)に参詣した際に詠んだ句だ⬆。芭蕉に同行した弟子の河合曾良が記した『随行日記』では、 「山寺や石にしみつく蝉の声」と記されている。ところで、この句にある岩にしみ入る蝉の声のセミの種類は何だったのか。1926年、歌人の斎藤茂吉は、この句に出てくる蝉についてアブラゼミであると断定し、雑誌『改造』の同年9月号に書いた随筆の中で発表している。ところが、これをきっかけにして芭蕉が耳にした蝉の種類についての文学論争が起こったのだ。1927年、岩波書店の岩波茂雄は、このセミの種類について議論すべく、斎藤茂吉をはじめ安倍能成、小宮豊隆、中勘助、河野与一、茅野蕭々、野上豊一郎といった錚々たる文人達を集めて論争を行った。アブラゼミと主張する斎藤に対し、小宮は「閑さ、岩にしみ入るという語はアブラゼミに合わないこと」、「元禄2年5月末は太陽暦に直すと7月上旬となり、アブラゼミはまだ鳴いていないこと」を理由にこの蝉はニイニイゼミであると主張し、大きく対立した。その後、斎藤茂吉は、実地調査などの結果をもとに1932年6月、自分の誤りを認め、芭蕉が詠んだ句の蝉はニイニイゼミであったと結論付けた。やはり、アブラゼミの喧しすぎる声が岩にしみ入るのはちょっと無理があるようだ(笑)