ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

「諸君、狂いたまえ」狂い過ぎた吉田松陰29年の人生。

幕末期、「松下村塾」を主宰し、高杉晋作や伊藤博文など、幕末維新の立役者たちを育てた思想家、吉田松陰。偉人として知られる彼が残した言葉に、「狂愚まことに愛すべし、才良まことにおそるべし、諸君、狂いたまえ」というのがある。現代風に訳せば「常識に捉われては大きな改革は遂げられない、現状に満足せず狂ったように自分の信じる道を進め」となる。 狂ったように自分の信じた道を進もうとした松蔭は、幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)と老中の間部詮勝(まなべあきかつ)が、幕府の政策に反対する勢力を次々と弾圧していく「安政の大獄」に怒り心頭となり、長州藩に対して「間部を暗殺するので武器を提供してくれないか?」と願い出て、藩から、「松陰を野放しにしておくと危険だ」と投獄されてしまう。弟子達も、このまま松陰を放っておいたら長州藩自体が滅びてしまうと危機感を抱き、松陰と弟子・友人たちと絶交させようと図り、同じ頃、江戸にいた高杉晋作も「先生、これ以上過激な行動をおこさないで下さい」と血判状を作って松陰に渡している。しかし、「幕府要人を名指しで弾劾した文書を書いた」と疑いを幕府にかけられ取調べを受け、それが事実無根であったにもかかわらず、その場で「老中の間部詮勝を暗殺しようとした」と自ら告白し、『安政の大獄』の最後の刑死者として処刑されてしまった。「狂いたまへ」を自ら実践して見せた吉田松陰、狂い過ぎた29歳の人生だった。