
天下統一を果たした徳川家康は、イギリス人のウィリアム・アダムスを外交顧問として抜擢したり、東南アジア方面での朱印船貿易を行ったオランダ人ヤン・ヨーステンを旗本にするなど「世界に開かれた外交政策」を目指していた。家康は将軍職を秀忠に譲った後も、駿府城で実権を握り続け、世界の国々との外交政策を次々と打ち出していた。ある時、スペインの大使ビスカイノが家康に「江戸湾の測量をしたい」と願い出た。これを聞いた外交顧問のアダムスは「江戸湾測量の目的は大艦隊による軍事侵略の準備であり、スペインはまず宣教師を送り込み国民をキリスト教に改宗させ、その後彼らを使い共謀してその国を攻撃してスペイン王国の領土としていく。それがスペインの常套手段なのだ」と家康に進言、慶長17年(1612年)、家康は、アダムスの助言を受け入れキリスト教会の破壊と布教の禁止を命じる「禁教令」を布告、宣教師や改宗しないキリシタンは、マカオやマニラへ次々と追放していった。こうして布教と貿易を一体化していたスペインなど「カトリック派」の国々を排除した家康は、キリスト教の布教と貿易を分けて考えるオランダやイギリスなど「プロテスタント派」の国との貿易に限定して、「鎖国体制」を築いていったのだ。400年前、「カトリック派」のキリシタンによる「日本国民の洗脳作戦」にいち早く気付き、すぐさま「禁教令」を布告した徳川家康、やはり、政治家として傑出した人物だったと言えるだろう。