1960年代を代表する作家といえば松本清張だ。その国民的な人気に嫉妬した同じ作家の三島由紀夫は、当時編纂された「日本文学全集」に、松本清張を入れることに猛反対し「清張の小説には文体がない」と根拠のない批判までしていた。そんな中、1970年、三島由紀夫(45歳)が「楯の会」のメンバー4名と共に市ヶ谷にあった陸上自衛隊総監部で起こした切腹事件。「楯の会」の三島と森田の2名が他のメンバーの介錯によって割腹自殺したこのニュースは当時、大きな衝撃を持って伝えられた。多くの文化人は、三島の侍スタイルの「切腹」による自殺を賛美したが、三島に苔にされていた松本清張は、冷静に三島の死について分析している。三島が自決した翌日(1970.11.26)の『朝日新聞』で、松本清張は「楯の会」が散布した檄文が、二・二六事件のコピーにすぎないと暴露し、「三島の文章もアジテーションとなると通俗的で平凡だ、例の文語体系のものだが、高踏的な調子は落ち、安っぽい語いが目につく」とし、さらに、二・二六事件との「一番大きな違いは、三島の行動が『つくりごと』だったこと」だと厳しく批判した挙句、三島由紀夫の割腹自殺を「楯の会」メンバーを道連れにした「情死」(心中)である、と断じたのだ。「自殺したいなら他人を道連れにした心中ではなく、自分独りで堂々と男らしく死ね」と松本清張は言いたかったのだ。