鉈(ナタ)一本で彫り出した荒々しい彫刻でありながら微笑をたたえた仏の表情を見事に表現した斬新な仏像彫刻⬆を数多く残した江戸時代前期の修験僧「円空」。円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5300体余りの像が発見されている。円空は民衆が気軽に拝めるようにと本来の写実的な仏像彫刻とは異なる 画期的な抽象化した彫刻技法を用いて仏像を次々と彫り、野に置かれることを望んでいたが、後年、伝統的な仏像彫刻とは異なるその個性溢れる「造形力」が芸術的に高く評価され、希少な彫刻作品として崇められ、その抽象化した表現力は、現代抽象画の先駆者ピカソに通じるとまで評されている。日本各地を遊行し「円空仏」と呼ばれる独特の作風の仏像を数多く残した円空は、晩年は生まれ故郷の美濃国(岐阜)へと戻り、元禄5年(1692年)廃寺になっていた岐阜県関市の弥勒寺を再興し、ここを自坊とした。64歳となった元禄8年(1695年)7月13日円空は、己の死期が近い事を悟ると、弥勒寺の南を流れる長良川河畔に穴を掘り、多くの里人に見守られる中、念仏を唱えながら自ら土に埋もれ入定(即身仏になること)を果たしたとされる。現在の弥勒寺には藤が繁茂しており、円空が「この藤が咲く間は、この土中に私が生きていると思ってほしい」と言い残しこの世を去った、という言伝えが残されている。