ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

新五千円札の津田梅子、親ガチャが当たって有名になった。

新5000円札の顔になった津田梅子(⬆右)は、女子英学塾(現:津田塾大学)を創設するなど、近代的な女子高等教育に尽力した人物だ。津田梅子は、明治維新から間もない時代に米国で教育を受けた進歩的な女性として知られるが、彼女が才能を開花できたのは父親の津田 仙(つだ せん)の英才教育のお陰と言えるだろう。(⬆左:梅子を抱く津田仙)。明治4年(1871年)に政府派遣の岩倉使節団が女子留学生を随行させると知った彼は、わずか6歳の娘である梅子を応募させ10年間の米国留学を体験させた、侍を辞めてわずか4年後の父親が、幼い娘を米国に留学させるという無謀と思える教育法には実に驚かされる。津田仙は、幕末の少年時代から藩校で英語を学び、24歳で外国奉行の通訳として採用され慶応3年(1867年江戸幕府発注の軍艦引取りのためアメリカへ派遣される使節団の一員として福澤諭吉らと共に通訳として随行した。娘の梅子を米国留学させていた間にも明治6年(1873年)のウイーン万国博覧会に副総裁書記官として随行し、津田がウィーン万博から持ち帰ったニセアカシア種子は、その後明治8年(1875年)に大手町に植えられ、これが東京初の街路樹となった。この年に、妻の初と共にキリスト教の洗礼を受けるなど150年前の日本人には珍しいグローバル(地球規模)な視点の持ち主であった津田仙。農学校学農社青山学院大学筑波大学附属盲学校普連土女学校の創立にも関わった人物で、娘の津田梅子にとっては大当たりの親ガチャだったのだ。