ゴッホのひまわりの絵に感銘して「わだ、ゴッホになる」と油絵画家を志した後、版画の世界で独自の境地を拓き、1955年第3回サンパウロ・ビエンナーレ展の版画部門で『釈迦十大弟子』などの作品が最高賞を受賞するなど「世界のムナカタ」と称される芸術家となった棟方志功⬆。彼は、1924年に21歳で青森から上京。故郷を旅立つ際、油絵で「帝展に入選するまで何があっても青森に帰らない」と誓っていたが、1927年(24歳)まで4回連続で帝展に落選。棟方の油絵はなかなか世間に認められず、時間だけが経っていった。そんな中、「国画創作協会展」で川上澄生の「版画」と出会い、心を打たれる。この時、志功は「神様のような日本の画家でさえ油絵では、西洋人の弟子にすぎない」と疑問を持ち「日本から生まれた仕事がしたい。尊敬するゴッホも、日本の版画である浮世絵に学んだ。版画こそ日本の芸業だ」と志功は考えついた。そして「板の命を掘り起こす」という志功の版画は、ダイナミックな造形美、みなぎるばかりの生命力、そして骨太で力強い「独創的」な世界を生みだしてゆく。しかし、志功の版画を認めたのは、「版画」を「油絵」より下に見ていた日本の美術界ではなかった。先入観を持たない欧米人の眼に、棟方志功の版画が新鮮な驚きを与えたことによって「世界のムナカタ」になれたのだった。「油絵」から「版画」への23歳での「発想の転換」、これこそが棟方志功を「世界のムナカタ」にした、由縁だろう。