室町時代(1394年〜1481年)の禅僧である一休宗純。その一休禅師が、正月気分が真っ最中のお目出度い気分に水を差すように詠んだ名句がある。「門松は冥土の旅の一里塚 、めでたくもあり めでたくもなし」。一休禅師は年が明けたばかりの正月の京の町を「めでたいのう、めでたいのう。あの世にまた一歩近づいたのだから、めでたいのう。正月に飾られる門松は、まるで冥土へと向かう道に築かれた一里塚みたいなものじゃ」と言いながら練り歩いたという。しかも、手には竹竿を持ち、その竿の先に人間の頭蓋骨を刺していたというのだから気味が悪い。五百年以上前の京の人々は、家の前を頭蓋骨を掲げた不気味な僧侶が歩いているという気味の悪い出来事が起きたせいで、正月の三ヶ日の間は外に出ないようにするという風習が広まったほどだという。一休宗純のこうした奇抜な言動は、禅宗の教義における風狂の精神の表れ(戒律を逸脱した行動)とされ、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたとされている。彼は、禅僧でありながら髪を伸ばし⬆、男色はもとより、仏教で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)という妻をも娶っていた。しかし、時の後土御門天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われていたという破戒僧の一休宗純。文明13年(1481年)、マラリアによって人生87里(歳)というシュール(奇抜)な人生を終え、この世を去った。臨終の言葉は「死にとうない」だったと伝わっている。