「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、生涯に20万を超える句を詠んだ正岡子規の作品のうち最も有名な句であり、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」と並んで俳句の代名詞としてよく知られている句だ。しかし、この誰でも知っている有名な句が、正岡子規の東大時代からの友人であった夏目漱石の句を下敷きにした作品、つまりパクリ作品であるのをご存知だろうか。正岡子規がこの句を発表したのは1895年11月8日発行の愛媛県の「海南新聞」紙上であった。ところがこの句が発表される2ヶ月前の9月6日発行の同じ「海南新聞」に夏目漱石が発表した「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」という句が掲載されていた。正岡子規は当然、漱石のこの句の存在を知っていた。なぜなら、この年4月、夏目漱石は英語教師として四国愛媛県の松山中学校に赴任し、自分の下宿(愚陀仏庵)に結核を病んでいた正岡子規を一緒に住まわせ彼から俳句を学んでいたからだ。2人が同居して半年後の秋、病状が良くなった子規は、漱石が用立てた旅費で奈良へ旅行し、そこで「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の名句を生んだのだ。そして、子規は、この句を漱石が発表したのと同じ「海南新聞」に敢えて2ヶ月後に発表した。つまり、正岡子規は俳句の師匠として、弟子である漱石の俳句をリニューアル(改作)してみせた、ということなのだ。