1950年(昭和25年)7月2日未明、京都・金閣寺において発生した放火事件。国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼した。普段火の気がないことから、不審火の疑いがあるとして捜査が行われ、同寺の見習い僧侶の林承賢が行方不明であることが判明、左大文字山の山中で薬物を飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕された。当時、産経新聞記者だった福田定一(後の作家・司馬遼太郎)は、この事件の取材のためにいち早く現場に駆けつけた。司馬は、記者として事実解明をするため、消失した金閣寺の庫裡に入り込み、庫裡の黒板に犯人が書いたと見られる「また焼いてたるぞ」という文字を発見する。さらに、金閣寺村上慈海住職に接見し、「犯人宗門に不満」と題した他紙とは異なる視点から村上住職の話に焦点を当てた事件記事を書いている。「放火犯人の林は無口な孤独的な性格で最近学校もよく休むので再三注意したら突然退学すると言い出していた。平素思想的な面で宗門に対する不満があったようだ。林は「宗門は金閣寺という財源の上に眠っているから衰退していくのだ。金閣寺がなければ、宗門の僧達も真剣な教化に乗出し教勢もかえってあがるんだ」と周囲の者に語っていた、と話す金閣寺住職の会見記事を載せている。事件現場を直接見ていない作家・三島由紀夫は、金閣寺放火の犯人像について「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美への憧れと反感を抱いて放火した」と分析したが、事件現場に直接入った司馬遼太郎の客観的な分析こそ「真実性」があると思いませんか。