ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

天才絵師「北斎」は、悪魔のような孫に悩まされた。

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天保13~14年(1842~43)頃、83~84歳頃の北斎は、毎朝小さな紙に唐獅子や獅子舞の図を描き⬆、丸めて家の外に投げ捨てていた。ある人が、その理由を聞いたところ、北斎は「これ我が孫なる悪魔を払ふ禁呪なり」と答えたという。北斎が悪魔と呼び捨てた孫とは、一体どんな人物だったのか。北斎の長女である美与は、北斎の門人である柳川重信という絵師と結婚し、男の子を産んだ。名前はわかっていない。やがて、美与は柳川重信と離縁し、息子を連れて北斎の元に出戻ってくる。北斎もやはり人の子、長女が産んだ孫のことをとても可愛がったという。ところが、この孫は成長するに連れて放蕩の限りを尽くし、北斎が70歳の頃から、孫がさまざまな悪事を企み借金取りがやってくるようになり、北斎は、代表作である「冨嶽三十六景」の構想を練る大事な時期でありながら孫の悪事の尻拭いを幾度となくさせられ、勘当してしまおうという状況に何度もなったという。結局、天保元年(1830)正月、孫を父親である柳川重信に引き渡し、孫は上州高崎より奥州へ連れて行かれたが、途中で逃げ戻って来やしないかと北斎は怯え、毎日「悪魔祓いの獅子図」を描いては家の外に投げ捨てていたというわけだ。江戸時代のことわざ「: 祖父は辛労、子は楽、孫は乞食(祖父は苦労して富をつくり、子はそのおかげで楽な思いをし、孫は安楽に慣れ、家をつぶして乞食になる)。北斎と孫の関係がそのまま「ことわざ」になった感がある。