ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

秀吉のキリシタン弾圧、日本人女性を奴隷売買したから。

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始めは織田信長の政策に倣って、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉だったが、突然「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした理由は、ポルトガル人による「日本人の奴隷貿易」を知ったからだった。1555年のイエスズ会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り、性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。ポルトガル人イエズス会士ルイス・セルケイラ が1598年に記録した文書によれば、日本人の女性奴隷は、ポルトガル船で働くヨーロッパ人水夫だけでなく、黒人水夫に対しても、として売られていた、という記述がある。信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉が突然手のひらを返したのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」の九州遠征に勝手に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを秀吉が引見し、「なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか」と問い詰めると、コエリョは、「売る人がいるから仕方が無い」と平然と言い放ったからだという。 すると秀吉は九州平定からの帰国途中の博多で、「バテレン追放令」を発令し、秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じ、さらに「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。「バテレン追放令」から10年後、豊臣秀吉の命令によって長崎で26人のカトリック信者がの刑に処された「26聖人処刑」(⬆上の図)が、歴史的にはクローズアップされがちだが、秀吉のキリシタン弾圧の発端は、貧しい日本人の「奴隷売買」に秀吉が激怒したことが一番の理由だったことを、日本人は記憶しておくべきだろう。