ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

黒船で日本を去ったペリー提督、3年後なぜアル中で死んだ。

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168年前、黒船を率いて日本にやってきた米海軍のマシュー・ペリー提督。大砲で日本を威嚇する「砲艦外交」で日米和親条約を結んだ強面の提督だ。ペリーは日本開国任務が与えられる前に、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・グラハムに提出、その中で中国人に対するのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好を訴えるより多くの利点があるだろう」と書き記している。嘉永6年(1853年)に黒船4隻を率いて東京湾の浦賀に初めて来航したが幕府から上陸を拒否されるとペリーは「要求を拒否するならば、強力な武力をもってアメリカ大統領の国書を渡すために上陸する」と脅し久里浜へ強行上陸した。翌年の嘉永7年(1854年)に、ペリーは9隻の大艦隊を率いて再び来航して江戸湾(東京湾)奥まで侵入し、幕府が上陸を拒否した横浜港に強引に上陸して日米和親条約を締結、ロシア・イギリスなどの国々に先駆けて鎖国日本の扉を開いたのだ。我が国の歴史上でも特筆すべき人物であるペリー提督、アメリカに帰国後は、さぞや歴史的なヒーローになったのかといえば実はそうではなかった。日本の開国を成功させて1855年1月アメリカへ凱旋したペリーを待ち受けていたのは、大艦隊を率いての2度に渡る日本遠征で国の財政をムダ使いした事への批判の声だった。さらに日本遠征中に政権が共和党から民主党に交代していて、ペリーは海軍での居場所を失ってしまったのだ。帰国後、NYに住んでいたペリーは失意のどん底からパブに通うようになり、毎日のようにラム酒を浴びるように飲むようになった。その結果、持病の痛風を悪化させ、帰国からわずか3年後に心臓発作で倒れ、帰らぬ人となってしまった。享年64歳、世界で初の日本開国を成し遂げたペリー提督の「偉業」が報われないままの寂しい「最期」だった。