ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

「人生が楽しくなかったから人生を創造した」とココ・シャネル。

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12歳で母と死別し、父親に孤児院に預けられ、そこで育ったココ・シャネル。18歳で孤児院を出た後は、たったひとりで自分の人生を切り開いていく。ファッション界で成功した後に「私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したの」とシャネル自身が語ったように、孤児院で学んだ裁縫で仕立て屋に勤めたのをきっかけにしてファッション界での成功の階段をあらゆる手段を使ってシャネルは駆け上ってゆく。孤児院を出てわずか10年足らずの27歳、富豪の愛人となったシャネルはパリで最もファッショナブルな地区に富豪に出店費用を出させてブティック「シャネル・モード」を開店、彼女の制作した帽子を販売した。その11年後の1921年にはシャネルの香水「No.5」「No.22」を発表している。やがて大企業に成長した「シャネル」だったが、第二次世界大戦が始まるとすべてのビジネスを閉鎖してしまう。パリがドイツ軍に占領されると、シャネルはパリ駐在のドイツ外交官・諜報員と愛人関係になり、戦時中、シャネルはドイツのスパイ活動に関与する。第二次世界対戦が終結すると、シャネルはナチスのスパイ活動に協力したことで犯罪者として逮捕されるのを怖れてスイスに亡命。1954年、70歳を過ぎたシャネルはスイスでの亡命生活を終えパリへと戻り、あの有名なシャネルスーツを発表。ファッション界への復帰を果たしたのだ。傍から見れば「波乱万丈」すぎるシャネルの人生、しかし、ファッション界で常にトップを走り続けるために「自分の人生を創造し続けた」稀有なアーティストであった事は確かだろう。