ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

マイルス・デイビスとの永遠の愛、ジュリエット・グレコ死す。

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パリのシャンソン界を代表する歌手ジュリエット・グレコ(⬆写真左)が91歳で亡くなった。黒ずくめの衣装でグレコが歌う「パリの空の下」は、パリに住む人たちを慈しむようなその歌い方がノスタルジックで実に印象的だった。1949年22歳でまだ駆け出しの歌手だったグレコは、 Jazz界の鬼才マイルス・デイビス(⬆上写真右)のパリ公演のチケットを買うお金もなく、すでにソールドアウトだったため、知人の伝手でコンサート会場に忍び込んだ。「楽屋で彼の横顔を見た途端、私は恋に落ちました」とグレコは語り、マイルスは「魔法か催眠術にかけられて、恍惚状態にいるようだった」と当時の自分について語っている。「音楽以上に人を愛することをグレコが教えてくれた」と漏らしたマイルスは、たった2週間弱の天国のようなパリでのグレコとの日々が忘れられず米国に帰国後その夢のような体験から逃避するため、重篤なヘロイン中毒になったほどだ。5年後の1954年グレコのニューヨーク公演で再び出会った2人。グレコはマイルスをディナーに招待したが、注文から2時間経っても料理は提供されず無視されたまま。それは明らかな人種差別による嫌がらせだった。この事件を機に「黒人である自分が白人グレコと付き合うことは、グレコに大きな迷惑がかかる」とマイルスは内心思い、グレコをわざと遠ざけるようなヒドイ仕打ちをし始めた。グレコは、そんな仕打ちに我を忘れるほど心が乱れたという。2人の共通の友人だった哲学者サルトルはマイルスに、グレコと結婚しなかった理由を聞いたという。「私は彼女をあまりにも愛し過ぎたので、不幸にしたくなかった。彼女を守りたかった」とマイルスは語ったという。マイルスは自らの死の直前にも、グレコをパリに訪ねている。白人の天才と黒人の鬼才2人の生涯を貫いていた「愛」はまさに本物だった。