ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

豊臣秀吉は千利休に「切腹」を命じていない証拠史料。

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天下人信長・秀吉の2人に仕えた千利休は、京・大徳寺の山門上に自分の木像を置いたことが秀吉の怒りに触れ、天正19(1591)年2月、秀吉により堺に蟄居させられた後、京都に呼び戻され聚楽屋敷で切腹を命じられ、その首は一条戻橋にさらされた。 歴史上の通説では、茶人・利休の最期はこのように語られてきている。ところが、利休が切腹したとされる翌年の文禄元年(1592年)、九州に滞在中の秀吉が、大坂城の母(大政所)へ宛て次のような書状を書いている。「私は一段と元気です。昨日も利休の茶を飲んで、食事もすすみ、とても愉快で気分が良かったのです」前年に切腹を命じたはずの本人が、利休が立てたお茶を飲んだというのである。さらに、京都に住む伊達政宗の家臣、鈴木新兵衛が国元に宛てた当時の書状に、「利休は行方不明であり、代わりに利休の木像がハリツケにされたため前代未聞と評判となり、その木像の隣に罪状を書き上げた高札が立てられていた」と記し、利休が行方不明とし切腹したとは書かれていない。同じ時期に書かれた2人の公家の日記『時慶記』や『晴豊記』にも、利休が逐電した(逃げて行方をくらました)という記述がある。つまり、利休の切腹を裏付ける史料は何一つ出てこないのが実情なのだ。とはいえ、この時期に利休が表舞台から姿を消したことは間違いない事実であり、秀吉が利休の木像を はりつけにしたのは利休が政治的役割を失ったことを世間に公表するためだったと考えられる。豊臣政権内で 政治的影響力を持ちすぎた利休を嫌う勢力が現れ、内紛の火種となる可能性が出てきた為、秀吉は自分が死んだあとも豊臣政権を盤石なものとするため利休を 政治の表舞台から消す決断を下し、九州方面へ逃し隠棲させたというのが真相のようだ。秀吉があれほど仲睦まじかった茶人である利休に、武士と同じように切腹を命じたというのも矛盾する話だし、2人の公家が日記に書き記したように「利休が逐電した」=逃げて行方をくらました、とするのが正しい史実のように思われる。