ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

鳴り止まない「お笑い芸人」批判、「良くぞ言った」の声はないのか?

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80年前の中国の思想家「魯迅」(ろじん)のコトバに「水に落ちた犬は打て」という名言がある。いま、漫才コンクールで審査員を批判したお笑い芸人のとろサーモン久保田がまさに「水に落ちた犬」のごとく有名無名を問わず多くの人々から打たれ続けている。魯迅は自分の文集の中で「フェアプレイ」について記した文中で中国の故事「不打落水狗」(水に落ちた犬は打つな)をワザと反対にしてこの名言を生み出した。「 勇敢な拳闘士は、すでに地に倒れた敵には決して手を加えぬそうである。これはまことに吾人の模範とすべきことである。ただし、それにはもうひとつ条件がいる、と私は思う。すなわち、敵もまた勇敢な闘士であること、一敗した後は、みずから恥じ悔いて、再び手向かいしないか、あるいは堂々と復讐に立ち向かってくること。これなら、むろんどちらでも悪くない。しかるに犬は、この例を当てはめて、対等の敵と見なすことができない。何となれば、犬は、いかに狂い吠えようとも、実際は「道義」などを絶対に解さぬのだから。まして、犬は泳ぎができる。かならず岸へはい上がって、油断していると、まずからだをブルブルッと振って、しずくを人のからだといわず顔といわず一面にはねかけ、しっぽを巻いて逃げ去るにちがいないのである。しかも、その後になっても、性情は依然として変わらない。愚直な人は、犬が水へ落ちたのを見て、洗礼を受けたものと認め、きっと懺悔するだろう、もう出てきて人に咬みつくことはあるまいど思うのはとんでもないまちがいである」さてはて、なお打たれ続けているとろサーモン久保田は「水に落ちた犬}なのか?人間らしく「よくぞ言った」の声は無いのか?