大正時代、東北の小さな田舎町花巻で英国盤のクラシックレコードを大量に購入する青年が居た。イギリスのレコード会社ポリードールは、そのひんぱんな購入に驚きどんな人物がこんなに買ってくれるのかを問い合わせてきて、日本の東北に住む青年「宮沢賢治」宛に感謝状を贈ってきたというエピソードがある。宮沢賢治のクラシック音楽への傾倒ぶりを示すもう一つのエピソードが新しいレコード針の発明だ。彼は当時一般的だった竹の針の音質に不満を感じて自ら音質を高めた針を発明しアメリカのビクター社にサンプルを送って製品化を奨めたという。製品化にはならなかったが宮沢賢治のその優れた発想は当時のビクター社において高い評価を得たという。大正時代の東北の田舎町に住んでいながら、これだけの国際的なセンスに溢れていた宮沢賢治は不世出のクリエィターと言うほかは無い。この他にもレコードコンサートを主催したり、自分の詩に作曲したり、詩の朗読にピアノの伴奏を付けたりと、賢治は一生を通じて音楽との密接な関わりを持ち続け、自らの作品の中に音楽への造詣の深さを様々な形で取り入れていったのである。生きている間にはまったく無名だった宮沢賢治。当時の日本文化の水準よりもはるか先を行く豊かな感性から生み出された彼の作品の数々を、多くの日本人が理解できるまでには、死後20年を待たなければならなかったのである。