ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

全米女子オープンV2の笹生優花を、日本メディアなぜ誉めない。

ゴルフの全米女子オープン、日本のメディアは連日のように渋野日向子選手(⬆左)の活躍ぶりを伝え続けたが最終結果は惜しくも2位、では優勝したのは誰なのかと思ったらやはり日本人選手の笹生優花選手(⬆右)で、彼女は3年前と今回と2度に渡って全米女子オープン制覇という快挙を成し遂げたのだ。なのに、笹生選手の快挙についての報道をスルーして渋野選手のプレーのみを日本のマスコミは連日なぜ報道し続けたのか、笹生選手優勝から2日たって、ようやく日本のマスコミは、笹生選手がフィリピン人の母親と日本人の父親を持ち2つの国籍で活躍してきた選手だと紹介し始めたのだ。全米オープンで最初のVはフィリピン国籍で、今回2度目のVは日本国籍の笹生優花選手、しかも彼女は東京オリンピックでのゴルフ出場はフィリピン代表でプレーした。こうした事情を背景に、日本のマスコミは笹生優花選手を日本人選手の活躍として伝えることに躊躇していたように思われる。それで思い出されるのは、テニスの大坂なおみ選手、父親がハイチ人で母親が日本人の彼女について、当初は報道での扱いが小さかった彼女が、グランドスラム優勝を重ねる度に日本のマスメディアは大坂なおみ選手を日本のテニス界のヒロインとして扱い出した。マスコミで繰り返されるこうした暗黙の「人種差別」、グローバル化した現代の社会では、実に滑稽な事のように思われる。

大谷翔平が敵チームベンチに頭を下げた、NYメディア騒ぐ。

先日のニューヨーク・メッツのホーム球場シティ・フィールドでの試合で、ドジャースの大谷翔平選手がバッターボックスに入る前に帽子のツバに手を当て、メッツのベンチに向かって挨拶をした⬆。大谷選手にとって敵地での試合の際に必ず行うルーティンの会釈なのだが、この行動にNYメディアのFULL COUNT放送局が注目した。「彼は敵地で、いつもこうするのか?」と感心した様子でこの仕草について伝えると、地元ニューヨークのメッツファンもすぐさまこれに反応「やめてくれ!いいから俺達にお前をキライにさせてくれ!ったくもう」「すべてのメッツファンよ、オオタニの偉大なファンになれ」「この男を憎むことは不可能だ」「うわぁ、ニセモノのナイスガイ、彼のギャンブルスキャンダルにはウンザリだ」「いつも、勝ち星をアリガトウって言ってるのさ」「オオタニは、毎試合最初の打席の前にベンチに居る相手の監督にあいさつしてるみたいだよ」「ショウヘイに多くの愛と敬意を示すべき」。大谷選手が野球人として当たり前に行っているルーティンのあいさつが、敵地で注目を浴びる、何をしても話題になるMLBスーパースターならではの定めなのだろうか。

9歳で生首を写生、画鬼と呼ばれた幕末の絵師「河鍋暁斎」。

幕末から明治期にかけて活躍した江戸の天才絵師・河鍋暁斎(かわなべ きょうさい) ⬆。3歳で初めてカエルを写生。絵に対する並々ならぬ執着を感じた父親により7歳にして有名な浮世絵師・歌川国芳に弟子入り、9歳の時、長雨で増水した神田川の急流を写生しに出かけた折に川上から流れてきた生首をみつけ暁斎は写生をしようと家に持ち帰り、父親から生首を神田川に戻すことを条件に写生を許されたという逸話が残されている。絵の事に夢中になると我を忘れてしまう暁斎は、成人してからも自宅が焼失するのも気づかず火事の写生に没頭したり、通りかかった女性の帯の柄を写生するために後をつけて変態と疑われたりなど奇行の数々によって周りから「画鬼」と呼ばれた。こうして生み出された暁斎の強烈な個性と圧倒的な画力による作品(⬆上左)は、幕末期の日本人のみならず当時来日した外国からの要人達をも魅了した。フランス・パリのギメ美術館の創設者エミール・ギメを始め「鹿鳴館」を設計した建築家ジョサイア・コンドル、彼は河鍋暁斎に絵を学ぶために弟子入りまでしている。晩年にはアーネスト・フェノロサから東京美術学校(現東京芸術大学の前身)の教授を依頼されたが闘病のため辞退、その2年後、胃がんで弟子のジョサイア・コンドルの手を握りながら逝去した。幕末期の江戸の人々や世界の要人までをも魅了した幕末のシュールな絵師「河鍋暁斎」、グーグル画像で彼の作品をぜひ一度ご覧あれ。

 

 

 

ビートルズ初来日を断ろうとした男、39歳の永島達司。

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1966年2月、ビートルズの日本でのレコードの発売元である東芝音楽工業が、ビートルズの日本公演を希望するという発表を行った。これを受けてビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインが日本の音楽プロモータ永島達司 (キョードー東京創立者⬆上写真右)に日本公演の協力を直接依頼してきたのがビートルズ来日公演実現への第1歩だった。エプスタインはなぜ当時39歳の若い永島に交渉を依頼してきたのか。永島は 幼少期を父親の仕事の都合で海外で過ごし流暢な英語を話し、31歳で日本人初の音楽プロモーターとして、ナット・キング・コールベンチャーズルイ・アームストロングベニー・グッドマンなど世界的なアーティストの来日公演を成功させてきた人物として海外では有名だったからだ。依頼を受けた永島は、先ずエプスタインと国際電話で交渉「ビートルズを扱うことは名誉だし、入場料を1万円としても客は来るだろう。だがファンは未成年が多い。5千円でも負担が多すぎて弊害が生じるだろう」と考え、来日交渉を辞退しようとした。ところが、エプスタイン側から「日本公演は金儲けが目的ではない。むしろ入場料が高すぎてビートルズの評判が落ちることはこちらも望まない。ギャラの点は相談に乗るのでとにかく(ロンドンに)来て欲しい」と言われ、ロンドンでの直接交渉の結果、エプスタインからビートルズのギャラは「1ステージ10万ドル(3600万円)、1万人以上収容できる屋内会場で入場料はティーンエジャーの負担にならないように6ドル(当時のレートで2,160円)以下」という破格の条件が掲示された。これはビートルズが世界各地で行ったコンサートの中でも最低の金額設定だった。こうして、日本の若者でもチケットが買えるA席2100円という入場料が実現したのだ。「若者にも買える入場料金」を交渉の最初から主張した39歳の永島達司、彼の「陰の功績」を知る人は少ない。

 

「光る君へ」優雅な平安貴族は、何で収入を得ていたのか。

 

NHK大河ドラマ「光る君へ」で繰り広がれる平安貴族の優雅な生活、彼らは一体どんな収入源を持ち、これほど優雅な暮らしが出来たのだろうか。平安時代の日本は貨幣経済ではなく、物々交換経済であったはず。平安貴族たちは、そんな原始的な経済システムの世界で、なぜ栄華をきわめられたのだろうかと、ふと思い、あれこれググってみた。学校の教科書の読み返しみたいだが、平安貴族たちが贅沢な暮らしを実現できたワケは、7世紀後半から8世紀の初めにかけて形成された、「律令制」という中央集権的システムのお陰だとわかった。わかりやすく言えば、全国各地の人民が生産した米穀類や反物、様々な産品が税として都へと吸い上げられ、集積されたこれらの富を天皇のもとで山分けするための貴族たちの権謀術数を駆使した分捕り合戦に勝利したものが、優雅な宮廷生活を満喫できたのだ。ドラマ「光る君へ」で女優の吉高由里子が演じる紫式部(まひろ)の父で従六位という貧乏貴族だった為時(岸谷五朗)が、娘の紫式部を寵愛していた藤原道長(柄本佑)の推挙をうけて、突然、従五位に出世する⬆、 現代のお金に換算した試算では、従六位の為時は年収600万円ほどだったものが従五位に昇格したことで1400万円相当に年収が倍増したという。出世を諦めていたのに、娘の紫式部のおかげで出世できた父の為時、平安時代のサラリーマン貴族の悲喜こもごもが垣間見える。

 

 

日本人は家だけでなく家の周りも掃除する、と外国人が感動。

200万人のフォロワーを抱える人気インフルエンサーのトルコの女性教師フィゲンさんが、「日本人は自分の家だけでなく家の周りも掃除する」とX(旧ツィツター)に投稿した。「日本人の優しさと無私の精神を目の当たりにすると、いつも本当に感動してしまう!近所の様々な人たちが、報酬や評価を期待する事なく、自発的に道路を掃除したり、雑草を取り除いたりする。地域や周囲への彼らの愛情は本物で、心温まるもの。私たちは誰しもが自分たちのコミュニティに対して、ポジティブな影響を与えられるという事を、日本の人々は思い出させてくれる。この愛と優しさを世界に広げましょう」と日本ではごくありふれた光景を見て感動したことをツィートした。これに対する世界各国からの反応、「日本の場合は生徒も学校を掃除するわけで、公共の場も「清潔にする」という事が習慣になってるのは間違いない」「日本だとお店もそうだよ!従業員がお店の周りを掃除してる」「これは日本ではよく見る光景だよ。 年に何回か地域全体が協力して、 近所を清掃する事もあるし」「また、みんなで日本アゲをやってるのかい?」「子どもの頃、家の前の歩道を掃くのが日課だった。欧米で『禅』が今みたいにクールなものになる前に、私はそうやって『禅』を知ったの」「美しい光景ね。どこの国でも日本と同じ習慣を持つようになって、清潔な雰囲気を作って欲しいなぁ」「日本は電柱がなければもっと綺麗なのに」。

 

 

F・マーキュリーとM・ジャクソンの仲を裂いたバブルス。

イギリスを代表する国民的ロックバンド「クイーン」のヴォーカルとして知られるフレデイ・マーキュリーとアメリカを代表するロックシンガーのマイケル・ジャクソンの夢のコラボが1984年に企画された。There Must Be More To Life Than This「人生にはもっと多くのことがある)というタイトルの2人によるデュエット曲が誕生する予定だった。ところが、マイケル・ジャクソンが可愛がっているチンパンジー「バブルス」を収録スタジオに連れてきたことにフレディ・マーキュリーはイライラを募らせたという。フレディのイライラぶりについてスタジオで立ち会っていたショービジネスライターのデイビッド・ウィッグ氏は、自著の中でこう証言している。「フレディは、マイケルがバブルスを二人の間に座らせ、テイクの合間にチンパンジーの方を向いて『素敵だったと思わないか?』とか『もう一回やるべきだと思うか?』といちいち聞いていたので、フレディはとても怒っていた。そして数日後、フレディは堪忍袋の緒が切れ、マネージャーに電話をかけて『この動物園から出してくれ』と叫んで、曲が音楽的に未完成のままの状態を残してロンドンに飛び戻ってしまった」という。フレディ・マーキュリーとマイケル・ジャクソンの夢のデュエットを中止させる原因となったチンパンジーのバブルス、マイケルの死後もフロリダの大型類人猿センターで現在でも元気に暮らしているという。