ノーネクタイのMy Way

ネクタイを外したら、忙しかった時計の針の回転がゆっくりと回り始めて、草むらの虫の音や夕焼けの美しさ金木犀の香りなどにふと気付かされる人間らしい五感が戻ってきたような感じがします。「人間らしく生きようや人間なのだから」そんな想いを込めてMywayメッセージを日々綴って行こうと思っています。

「ターミネーター」本当はシュワルツネッガーが主役では無かった。

未来で繰り広げられる人類とアンドロイドとの死闘を描き出したSF映画『ターミネーター』。1984年〜2019年までに6作品が公開された人気シリーズ映画だ。この映画で欠かせない主役のターミネーターを演じ続けているアーノルド・シュワルツェネッガー (⬆上左)は、ジェームズ・キャメロン監督(⬆上右)によれば、当初はサラ・コナーをターミネーターから守るカイル・リース役のはずだったという。ところが映画の製作に入る前、キャメロン監督とシュワルツェネッガーが一緒にランチをした際、「誰が演じようとはっきりさせておきたいのが、ターミネーターを演じる者は、目隠しをしたまま武器を分解して武器を組み立て、銃を撃ち、装填する訓練をしなければならない。ターミネーターは何をしていようが、自分の手を見下ろすことができないから完全に目隠しされている状態だ。彼は機械だから」とシュワルツェネッガーが力説。さらに、ターミネーターの歩き方や話し方、機能などについて1時間のランチの間に熱っぽく語ったという。ランチの後「ターミネーター役をやってみないか」とキャメロン監督はシュワルツェネッガーに言い、続けて「つまり、君はターミネーターというキャラクターをとてもよく理解している。それこそが私たちの求めているものだよ」と、ターミネーター役をシュワルツェネッガーにその場で変更する意思を伝えたという。

 

NHK武田真一アナの涙に「この人辞めるな」和田アキ子直感。

「ニュース7」や「クローズアップ現代+」でキャスターを務め、2016年の紅白歌合戦で総合司会も務めるなどNHKの顔として活躍してきた武田真一アナウンサーが、NHKの60歳定年を待たずに55歳で退職する。専任局長待遇だった彼がなぜ突然退職することになったのか。そのきっかけは2021年2月の「クローズアップ現代+」のコロナ対策について自民党の二階幹事長(当時)に「政府の対策は十分なのか、さらに手を打つことがあれば何が必要か」と武田アナが迫った⬆、これに対して二階氏が「いちいちそんなケチをつけるもんじゃないですよ」と不快感を表したことが、NHK上層部で忖度され、その年の4月、突然の大阪局への左遷になったと噂された。その武田アナが、赴任したNHK大阪の番組に出演した歌手の和田アキ子に「アッコさんはこうやって明るくやってらっしゃるんですけど、悩まれたりすることないですか?」と武田アナが質問、和田は「誰でもあるよ、それは」と返答し様々な会話を交わしたという。会話の途中で何度も涙を見せた武田アナに和田は「泣いたらあかんよ。知らん人が見たら私が泣かしてるみたいになるから」となだめたという。後日「それに対してご丁寧にお手紙いただいて。“あっ、この人辞めるな”」と彼女は直感したという。55歳になる武田アナが、大物タレントの前で恥も外聞もなく涙を見せた。和田アキ子は、なりふりを忘れた武田アナのその姿に「退職」の固い決意を見て取ったというわけだ。

 

知の巨人養老孟司先生、思わず涙がこぼれてしまった出来事。

ベストセラー「バカの壁」の著者で東大医学部名誉教授の養老孟司先生⬆。若い頃は、他人に挨拶するのが何故か苦手だったという。先生曰く「中学・高校の頃は、町で知り合いに会っても挨拶ができなくて、よく母に怒られました」と語る。東大医学部の教授になった40代の頃、地下鉄に乗っていて、自分が人への挨拶が苦手な理由について考えて見たという。すると、4歳の時に亡くなった父の臨終の場面が、何の脈絡もなく映画の1シーンのように出てきた。親戚の人から「お父さんに挨拶をしなさい」と云われたのに、四歳の養老さんは、何故か父親に「さよなら」と言えなかった。「自分が挨拶が嫌いだったのは、あの時、父にしっかりさよならが言えなかったからなんだと気がつきました。その瞬間、いま父は(自分の心の中で)本当に死んでしまったんだと知って、思わず涙が流れました」と語り、「それまでは、さよならを言ってないのですから、父の生はまだ終わってはいないわけですから、がんばるしかなかった。子供としてできることは、それしかなかった。それが分かってからは、ちゃんと挨拶ができるようになりました。フロイトが『抑圧』と呼んだ自我の防御機制の典型ですね」と仰った。「知の巨人」が長い間背負っていたトラウマ(心の傷)、その事から解放された瞬間、思わず涙がこぼれ落ちた養老先生、素敵な話だと思いませんか。

「それで生活できるの?」 日本人の安月給TikTokユーザー驚く。

過去30年、賃金水準が殆ど上昇していない日本が、いま世界中から不思議がられている中、TikTokに「あなたの給料いくら?」と日本人に街頭インタビュー⬆する動画が投稿された。この動画に登場する若い人たちの月給は、20万円弱から26万円程度という答えだった。これを見た海外のTikTokユーザーから、「本当にこれがひと月の金額なのか、この給料でどうやって生活していくのか」という驚きの声が挙がった。「その給与水準に対して、家賃や生活費はどのくらいなの?私の国では、1ベッドルームの小さなアパートの家賃が1,200ドル(15万円)だよ」「この人たち、20代前半だよね、まだ親と一緒に住んでるとか?」「20代前半だとしても、これは安すぎるよ、これじゃカリフォルニアの最低賃金並みだ」「先進国にしては、ずいぶん安い給料なんだね」「でも、なぜ日本人はみんなおしゃれで、デザイナーもので着飾っていられるの?」「日本企業は給料を上げるくらいなら、浮いたお金をゴミ箱に捨てるんだ」「そして文字通り、長時間労働で、ひどいストレスに耐えながら、必死に働いているんだ」。80年前、日本国民は「欲しがりません勝つまでは」のスローガンのもと、日本国の戦争費用を支え続けて結果的には勝つどころか負けてしまった。世界に類を見ないこうした忍耐力は、2023年の今日でもまだ続いている。給料が上がらないことに決して怒ろうとしない日本人、世界中の笑いものだろう(笑)

 

’98長野冬季五輪、閉会式の空気を変えた欽ちゃんの「セーの!」。

1980年代「欽ちゃんの」と名前を冠したコメディ番組が軒並み高視聴率を挙げ「視聴率100%男」と呼ばれていたコメディアンの萩本欽一さん。その彼が、25年前の1998年長野冬季五輪で、世界中が注目するイベント「オリンピック閉会式」の司会という大役を任された⬆。20世紀最後の冬季五輪となった長野五輪。世界的イベントである五輪は、同時通訳がつき、その模様は世界中に中継される。そのため、司会の欽ちゃんにもアドリブ禁止で台本通りのセリフによる進行が求められた。閉会式は、台本通り順調に進行し、いよいよフィナーレが近づいてきた。聖火が消えたあと、台本に書かれていた司会の欽ちゃんの最後のセリフは「選手の皆さんありがとうございました」だった。しかし欽ちゃんは「僕だけがありがとうじゃなくて、ここに居る観客もテレビを見ている国民の皆さんもありがとうって言いたいんじゃないかな」とふと思った。そう感じるまま、とっさに「僕だけでなく皆さんも選手たちに『ありがとう』と言おう。セーの!」とアドリブで競技会場全体に向かって、持っていたマイクを向けた。次の瞬間、「ありがとう!」「ありがとう!」の声が競技会場中に合唱のように響き渡り、長野五輪の閉会式にふさわしい感動的なフィナーレとなった。会場に居た観客の心ををとっさに読み取った欽ちゃんのアドリブ禁止を破った「セーの!」の掛け声、「視聴率100%男」の面目躍如だったと思いませんか。

 

プロ野球の父「正力松太郎」は、CIAの手先だったのか。

1936年日本初のプロ野球チーム読売ジャイアンツを創設し「プロ野球の父」と呼ばれ、1951年民間放送で初の日本テレビを創設し「テレビ放送の父」と呼ばれ、1956年日本初の原子力委員会の初代委員長を努め「原子力の父」と呼ばれた読売新聞社長の正力松太郎(⬆上右端)。財界人としてその名を馳せた「正力松太郎」は、実はアメリカ中央情報局CIAの手先だったと、正力の死後37年を経た2006年アメリカ国立公文書記録管理局が公開した外交文書によって明らかにされた。アメリカ中央情報局CIAは、戦後の日本に原子力を輸出するために広島・長崎の原爆投下による日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くため、読売新聞社長である正力松太郎の持つ新聞の力を利用しようと考えた。戦後日本に、テレビ放送の導入と原子力発電の導入を目論んでいた正力は、CIAと利害が一致したためお互いに協力し合うことになり、CIAから正力に情報収集対象者としてコードネームpodam」が与えられた。こうしたCIAの強力なサポートがあって、正力は「テレビ放送の父」と「原子力の父」と呼ばれる地位を得たというのだ。しかし、正力松太郎の死後、CIAの幹部は、「正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない人間だった」と語っている。CIAに利用されずに利用する、正力松太郎がCIAと手を組んだ本当の狙いは、そこにあったと思われる。

 

「どうしようもない私が歩いている」山頭火のニヒリズム。

昭和初期の自由律俳句俳人として知られる種田山頭火。1925年43歳の時に出家得度して各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。彼の人生は不幸の連続だった。大地主だった父親の放蕩と破産、それを苦にした母親の自殺、神経衰弱による早稲田大学中退、弟の自殺、50歳での自殺未遂など。出家した山頭火は、晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と自らのニヒリズム(無価値な人生)について記している。43歳で無一文の乞食となった山頭火は、旅立ちにあたり「過去一切を清算しなければならなくなってゐる(行乞記)」と日記に記し、雲水姿⬆で西日本を中心に物乞いの旅をしながら句作を行った。たった一人で孤独な旅を続ける中で、山頭火は「自然との対話」を続けながら、自由律の名句を数多く生みだし、それが山頭火にとって生きることの唯一の「証(あかし)」だった。「分け入つても分け入つても青い山」「けふもいちにち風を歩いてきた」「この旅、果もない旅のつくつくぼうし」「また見ることもない山が遠ざかる」「笠にとんぼをとまらせてあるく」「うしろすがたのしぐれてゆくか」「まつすぐな道でさみしい」「生死の中の雪ふりしきる」、そしてニヒリズムの名句「どうしようもない私が歩いている」。晩年は、 愛媛県松山市に移住し「一草庵」を結庵。1940年(昭和15年) 10月11日、脳溢血のため一草庵で57年の生涯を閉じた。